いっこく堂 実はオーディションを受けたけど、落ちたんですよ。横浜放送映画専門学院の入試と並行して受けたんですけど、ディレクターに「君は役者の方が向いてるよ」って言われて。要するに面白くなかったんでしょうね。でも、ちょっと嬉しくもあったんですよ。「やっぱり、俺は役者なんだな」って(笑)。
その時のネタ見せには、とんねるずさん、でんでんさん、ぶるうたすさんがいましたね。みなさんのネタを見て「面白いし、なんかすごいな」って思いましたね。
駆け出し時代にできた、明石家さんまとの縁
――事務所に入っても、司会業が多かったそうですね。
いっこく堂 温泉旅館での司会が多かったですね。たまにキャバレーやパブに呼ばれて、そのショータイムにものまねをやらせてもらったり。
あと、吉本興業さんの芸人さんたちと営業で地方へ行きましたね。明石家さんまさんも一緒で。喫茶店で、よくおしゃべりしました。それは、さんまさんも覚えてくれていましたね。
営業以外でも会う機会があって。さんまさんが司会の『お笑いベストテン』(テレビ東京系、1982年)に、僕もリハーサルに加わったりして、少しだけ関わっていたんですよ。
――さんまさんも『笑ってる場合ですよ!』に出ていましたし、なにかと縁があったんですね。いっこく堂さんがブレイクした時に「あの時の!」と言われたりは?
いっこく堂 いや、最初は気づかなかったみたいです。ある番組でご一緒した時に『笑ってる場合ですよ!』の映像が流れて、そこでようやく「あの時の!」となりました。
有名劇団を受験、忘れられない言葉
――タレント業を続けて3年が経った1986年に「劇団民藝」に入られています。
いっこく堂 改めて俳優になろうと思ったんです。アルバイト先の仲間が「ここ、すごくいいよ。入所費がタダ」と教えてくれて、「え、タダ!? じゃあ、行こう!」となって。「劇団民藝」のことを何も知らずに即決しました。劇団って、月謝を払うのが普通でしたから。
同じくタダの、仲代達矢さんが主宰する無名塾も受けて、最終まで残ってるんですよ。そのなかに僕もいて。正直、受かる勢いでしたね。仲代さんの奥様の宮崎恭子さんから「あなた、すごく才能があります」と言われて喜んだのも束の間。
「あなた、家から仕送りしてもらえるの?」「無理です」「うちに入ったらアルバイトする時間はないから、仕送りやってもらえる人とか、家から通ってもらえる人じゃないと駄目だから」と。「あ、これ落とされるやつだ」って(笑)。だけど「でも、才能ある人はどこに行っても成功します」と続けられて。その言葉でかえって自信がつきましたね。