脱獄王にくだされた判決は…
確保時の東奥日報が報じたところによれば、白鳥の脱獄は初回から入念な準備がなされた結果であった。
『脱走の数日前、便器の汚物を棄てに行つた際、廊下で長さ七、八寸の二分丸の針金を拾い、数日間を費してこれを曲げて手製の鍵を作り、それで監房の錠前を外して脱監して同 裏門の扉を開け……』
白鳥由栄については、ジャーナリストの斎藤充功氏がかつて徹底的に取材し、『脱獄王 白鳥由栄の証言』(幻冬舎アウトロー文庫)にまとめている。彼は、斎藤氏に対し、脱獄までの準備を明かしていた。
『汚物を棄てるため房外に出た時に、錠前の位置と食器口の位置を目測で計り、後日、看守の隙を狙って食器口から手を出して、掌が鍵穴に当たることを確かめた』
『狙った時間は真夜中で、看守の交代時間だった。その時間は看守のいちばん気のゆるむ時間帯で、巡回の空白時間が十五分あるんだ。その時間を計るには看守の足音を数えて、それで、ピタリと当てた。もちろん、何十日も試してみたよ……』
脱獄すると決めたら絶対にやる。そんな彼の執念が初回の脱獄からすでに感じ取れる。白鳥は先の強盗や殺人などの罪で起訴され、同年8月、青森地裁にて死刑を求刑された。この時代、インターネットもテレビもないため、彼のニュースは全国区に広がってはいなかったが、少なくとも青森県下では相当な騒ぎとなっていた。
『何分にも事件は迷宮入りを伝えられ二年六ケ月振りで判明した東郡筒井村の強盗、殺人事件をはじめ青森市内及び青森市附近の土蔵破り犯人、刑務所破りだけに傍聴人は約五百名法廷前に群がつた(…)裁判所では整理のため傍聴券百五十枚発行したが、我も我もと押しかけ、入廷した傍聴人は約三百名』(『東奥日報』昭和11年8月19日)
傍聴希望者500名は、2020年に東京地裁で開かれた歌手・槇原敬之の覚醒剤取締法違反等の公判に集まった人数とほぼ同じである。
この公判に白鳥は『傍聴席を見廻してニヤニヤと不敵な笑いを浮かべ』るなど、不遜な態度で臨んでいたようだ。
後日行われた判決公判で白鳥は無期懲役を言い渡され、この判決は宮城控訴院で確定した。青森刑務所から宮城刑務所、小菅刑務所に身柄が移されたのち、最終的に秋田刑務所に移監されたのが1941(昭和16)年10月だった。