1943年、逃走罪によって網走刑務所に移管された“昭和の脱獄王”こと白鳥由栄(しらとり・よしえ)。すでに2回の脱獄に成功していた彼を「決して逃すまい」と網走刑務所が加えた“むごい仕打ち”とは?
異色のベストセラー『つけびの村』で注目を集めた高橋ユキ氏の新刊『逃げるが勝ち 脱走犯たちの告白』より一部を抜粋。(全2回の2回目/前編を読む)
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死ぬかと思った
1943(昭和18)年3月、白鳥に対し、東京区裁で逃走罪により懲役3年の判決が言い渡された。そして翌月には、網走刑務所に移監。ところが、白鳥は37歳になった翌年にここからも脱獄してしまう。
「博物館 網走監獄」副館長の今野久代氏が、白鳥収容の経緯を語ってくれた。
「彼は青森と秋田を脱獄して網走に来ていた。網走は重警備刑務所ですから、やっぱり当時としても、この網走で脱獄させるわけにはいかなかった。だから本来は舎房にしても4舎の、独居房の1房と2房に収容する予定だったといいます。この2つの房は『特殊房』といって天井と床が二重貼りだったんです。ですが、すでに2回脱獄している。彼は本当に危険だということがすでに予備知識として網走の者たちにはありましたので、だから1房2房はやめ、4舎24房に彼を入れることになったんだそうです」
なぜ、天井と床が二重貼りの、特別な房に白鳥を入れなかったのか。それは刑務官の配置が理由だった。
「この24房は他の独居房と特に変わったところはありません。であれば、なぜ24房においたかというと、五翼放射状房は5舎房ありますが、中央見張り台とは別に、この5つの舎房の廊下にそれぞれひとつずつ、刑務官が立っているお立ち台があったんです。それぞれの廊下に立つ位置が決まっていて、4舎では、24房がお立ち台の目の前でした。そのため、そこであれば24時間彼を監視できるだろう、隙を見せてはいけない、ということで、24房に収容したんですね」(同前)
脱獄を繰り返す動機は、秋田刑務所脱獄の時と同じく、処遇上の問題による……と、のちに白鳥は言う。“3度目”を阻止しようと最大限に警戒していた網走刑務所は、白鳥を24房から一歩も出すことなく、手錠と足錠をかけたまま拘禁した。加えて、冬の寒さである。極寒地の網走において、白鳥は真冬でも夏物の単衣一枚しか着用を許されなかった。そして夏には逆に厚着をさせられていた。
『網走のときは俺も死ぬと思った。冬は想像を絶する寒さで、吐く息が両手を縛った革バンドの上ですぐ霜になって、フーッと吹くと白い粉になって舞って、髭なんか、バリバリに凍ったもんだ(…)夏は反対に刺し子みたいな厚い綿入れを着せられて、手錠や足錠はほとんど外してくれなかったから、蛆が湧いてきて、生きてる人間にも蛆が湧くことをあのときはじめて知ったね――』(『脱獄王』より白鳥の証言)
こうした生活を送りながら白鳥は「網走にいると本当に殺される」と思い、脱獄を決意したのだという。