仕事の手順を忘れて、ミスしてしまう。急に体調不良に襲われる。虫や人など幻視を見る……。50歳の時、「レビー小体型認知症」の診断を受けた樋口直美さん。診断前後の日記『私の脳で起こったこと』が日本医学ジャーナリスト協会賞優秀賞を受賞し、以降、執筆や講演を行い、認知症について発信している。
最新刊『「できる」と「できない」の間の人』は、認知症や老い、コロナ禍と向き合い悪戦苦闘する日々を綴ったエッセイ集だ。育児がつらかった頃の話、おでこのコブを笑われた話など、病前の個人的な体験も多数綴られている。
「病気の症状については、前著『誤作動する脳』でほぼ書き尽くしたので、今回は違うことを書きたいと思いました。もともと晶文社のサイトでの連載で、コロナ禍と同時に書き始めました。2年の連載中、コロナに苦しめられている人、仕事を失った人、学費に困った学生、家庭で虐待される子どもなど、たくさんの人が追い詰められていて、ニュースを見るのがつらかった。そういう人たちに、なんとか生き延びてほしいという思いもどんどん強まっていきました。私自身、病気になる前から、ずっと生きづらさを感じてきたので、他人事ではなかったんです」
20代の頃から活動的で、海外も飛び回るようなタイプだった。結婚と出産を経て、夫の仕事の都合で海外での子育ても経験。しかし帰国後、壁にぶつかった。
「日本での子育ては、家から半径100メートル以内に閉じ込められた感じで、孤独でつらかった。働きたくても、『子どもを預けて働くなんてわがまま』と言われた時代。反対を押し切って働き出し、見失っていた自分を取り戻したら、子どもたちも無性にかわいく感じた」
連載中、詩人の伊藤比呂美さんが「子育ては後悔ばっかり」と語るのを偶然聞き、救われた気がした。
「それなら隠してきた当時の気持ちを書くことで、誰かの力になれるかも、と思いました」
また本書を通じて描かれるのは、認知症を人生の一部分としてポジティブに受け止めようとする姿勢だ。認知症のイメージは、あまりにも歪められていると樋口さんは語る。
「認知症は、病名ではないんです。原因となる病気が60種類以上あって、症状も千差万別。病気が同じでも病状は個人差が凄く大きい。診断が正しくないことも、薬が合わず、かえって悪化することも決して珍しくないです。脳の病気は、まだわかっていないことの方が多いのです。認知症という言葉も〈状態〉を表す言葉。状態は、人間関係など環境だけで劇的に変わります。困った言動を症状ではなく、ストレス反応と捉える考え方があります。体と一緒に脳も必ず老化しますから、長生きすれば誰でも認知症になって当たり前なんです。だから認知症への考え方やイメージを変えて、親や自分が認知症になっても胸を張って笑って生きられる世の中に変えていかないと未来は暗い。お互いさまと、気楽に手を貸し合うような新しい仕組みが地域にできていけばいいなとも思います」
〈衰えていく中にあるとしても、あなたは、大切な人だ〉と綴る本書に、励まされる人も多いだろう。
「私にも今後があるなら、脳の他の病気や障害への偏見を減らすことや〈死〉について書けたらいいなと思います。死は誰にとっても大きな問題ですから。逃れられない苦難をどんなふうに見たり考えたりしたら少しでも楽になれるかということを考えるのが癖かもしれません」
ひぐちなおみ/文筆家。レビー小体病当事者。多様な脳機能障害、幻覚、嗅覚障害、自律神経症状があるが、思考力は保たれ執筆活動を続ける。著書に『私の脳で起こったこと』『誤作動する脳』など。