『人でなしの櫻』(遠田潤子 著)講談社

 俊英と称されながら、不慮の病で妻子を喪って以来、生きた人間が描けなくなり、いまや「死体画家」と揶揄(やゆ)されている。

 遠田潤子さんの小説『人でなしの櫻』の主人公は、35歳の日本画家、竹井清秀(きよひで)。画壇から遠ざかった彼の目に映るのは、京都の智積院(ちしゃくいん)にある「櫻図(さくらず)」(16世紀、国宝)だ。金箔地に枝ぶり見事な大木。無数の八重の櫻が咲き誇る。長谷川等伯の一子・久蔵(きゅうぞう)は、「腐れ胡粉(ごふん)」(日本画に使う白の絵具)を盛り上げる手法で満開の櫻を表現した。――俺は「櫻図」を超える絵を描かなければならない。だが、時間がない。

 本書は、一見、絵に執着する画家の物語だ。

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「『櫻図』を初めて見たとき、この絵を小説に書かなければならないと天啓が降りて来たんです。久蔵の堂々とした自信と無垢な純真が表れているようで、強く惹かれて。『櫻図』を遺して夭逝した久蔵に対して、清秀は病に冒され、余命いくばくもない。実は、彼の焦燥や絶望、痛みは私が感じたことなのです。4年ほど前に初期の癌が見つかり、手術をし、放射線治療も受け、今も薬を飲んでいます。癌の再発に怯えて暮らすなかで、自分は傑作を生みだせずに死んでいくのかと葛藤しました。むき出しの感情を込めたほぼ私小説です」

 清秀が絵に込める執念は生半可なものではない。老舗料亭「たけ井」の当主で天才料理人として名を成した父・康則(やすのり)との絶縁、相克が明らかになっていく。

 ある日、康則の秘書から連絡が入り、大阪市内の高層マンションに向かうと、父は頭から血を流して死んでいた。警察沙汰にせず内々に処理したい、と秘書。不審に思い、鍵のかかった扉を開けさせると、裸の少女・蓮子(れんこ)がぬいぐるみを抱いて座っていた。8歳で誘拐され、長い間、父に監禁されていたという。唾棄(だき)すべき犯罪に激しく憤りながらも、清秀は突き動かされるように一心不乱に蓮子を描く。腐れ胡粉で、櫻の花びらを盛り上げながら。父の下卑た嘲笑が聞こえる。

〈ここにいるのはあの男が壊した女だ〉〈その女に涎を垂らして飛びついて描いている己もあの男と同類だ〉

 これまで血族の逃れられない因縁を描いてきた作家の面目躍如たる描写だ。

 生きた人間を描く充実感と新たな渇望。清秀は蓮子を連れて逃げ出す。隠れ家で体を貪(むさぼ)り合いながら、清秀は蓮子を描き続ける。

遠田潤子さん

「監禁というタブーを書くことは手探りの連続で、とくに蓮子のくだりは何度も書き直しました。最初の原稿では、蓮子は心の傷から回復して自立するという“いい話”だったんですが、『これが遠田さんの書きたかったことですか』と編集者に何度も煽られて(笑)。蓮子は、芸術家の創作欲を刺激するミューズだと編集者は言います。蓮子は清秀に絵を描かせる。彼女が単に可哀想かというと違うと思う。清秀に描いてもらうことで、彼女は最後に自由な精神を手にするのです」

 描いて。描きたい。死ぬまで描いて……。一幅の絵のために交わされるふたりの熱情と狂気は、圧巻の筆遣いで終局へと突き進む。

「清秀と蓮子を描くのに、簡潔な文章では違和感があり、長く連々とした文体に変わっていきました。小説を書き始めて10年を過ぎて、私自身が変化するきっかけとなったのかもしれません。インモラルか、芸術か。執着か、愛情か。ふたりが揺れ動き、溶け合って、人間ではない“人でなし”になっていく。決して性暴力を容認するわけではありませんが、どろどろした関係性のなかで、人間の普遍を書き続けたいと思います」

とおだじゅんこ/1966年、大阪府生まれ。2009年『月桃夜』で日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。17年『オブリヴィオン』が「本の雑誌 2017年度ベスト10」第1位、『冬雷』が未来屋小説大賞を受賞。20年『銀花の蔵』が直木賞候補に。『雪の鉄樹』『紅蓮の雪』『緑陰深きところ』など著書多数。

人でなしの櫻

遠田 潤子

講談社

2022年3月30日 発売