「めちゃイケ」でダサいとされていたこと
大島 それは笑いのツボみたいなこと?
明松 笑いのツボと語彙力の豊富さ。「めちゃイケ」って、テロップで入る文言と同じことをナレーションで言うのはダサいとされていて。「なぜ情報を提供するチャンスが2つあるのに同じにするの? もっと立体的に広げたほうがいいんじゃないの」って。でも、テロップとは違う言い方で、ベストな方法をなかなか思いつかないって、凡人はなっちゃうの。俺らみたいな凡人は。飛鳥さんっていうのは、平気で2個目3個目を、ナレーションとテロップで分厚くしていく。
大島 ああいうのって“芸”みたいなもんだよね。
明松 もう現世では追いつけない、とすら思ったよ。2000年の幕開けミレニアムに、お台場を5キロ走ってゴールするっていうのを、岡村さんがゴールしないでお台場を飛び出して、そのまま42.195kmを走って戻ってくるみたいな、岡村オファーシリーズの生放送があったんだけど、それの完全版だったかな……ラスト10分ぐらいのところで、今までやってきた岡村オファーシリーズの名シーンがスローで流れて。「奇跡! それはなになに……」って、5つぐらいのテーマで奇跡を語るわけ。そんなナレーション、俺は一生書けない。奇跡を5つの切り口で分厚く表現するナレーションは、ホント痺れたね。
大島 そういう時って、笑って泣けるんだよな。
明松 いや、逆。「泣いて、笑う」っていうのが大事だったんだ。ゴールしてフィニッシュして、相当いい感じになってるからこそ、「なんかラストない?」みたいな。「誰かの存在を忘れてる、みたいな小笑いでいいから」って。だから大感動は、笑いの最大のフリですよ。ちょっとした面白いことでも、超面白くなるから。
「プロデューサーをやらせてください」
大島 そうか。笑いで終われるっていうことに、視聴者の安心感があったんだ。
明松 演出部もそうだし、演者の皆さんも、そこは共有できていたから。お笑い番組の意地みたいなところでもありつつ。泣きながら、最後は笑わされたっていうのが一番好きだったな。
大島 それにしても、明松は20代半ばから40代半ばまでを「めちゃイケ」に捧げたんだよな。ADからディレクター、そしてプロデューサーと歴任して。
明松 そうよ。辞めたいとか逃げ出したいとか、1回も思わなかったし。飛鳥さんを中心に、皆で同じ方向を向いてるっていう稀有な番組だった。普通はスタッフがあれだけいると、色んなベクトルが混ざってギクシャクしたりするじゃん。全員が同じベクトルで「これが面白い!」っていうのはそんなにないのかなって。あの純度の高さが好きだったな。
大島 プロデューサーになったのはどういう経緯で?
明松 作り手として、上の人との差は、努力すれば絶対に抜けると思ってたんだけど、「抜けないな。あれ? 広がってるんじゃないの」っていうのが2008~09年頃。2010年に、「プロデューサーをやらせてください」って言うんだけども。
大島 なるほど。じゃあ演出の方向ではもう……。
明松 そう、壁にブチ当たりまくってて。演出家としては、もう限界かなっていうのがあって。
異動か……
大島 これは世間で思われていることとは違う部分で、なんとなくプロデューサーのほうがエラいっていう空気があるじゃない。でもバラエティ……少なくとも「めちゃイケ」班とかだと違うんだよね。
明松 そうだね。演出部の方が上。
大島 やっぱり演出できてナンボ、みたいな感じだったんだろうなあ。結局、我々の同期もバラエティに5、6人いたけど、プロデューサーとしてブイブイ言わせたいとかじゃなくって、圧倒的な「総合演出」をやりたいっていう感じだよね。
明松 そうよ、演出家として大成したかったっていうのが今でもあるけれども、「いや、ちょっとこれは」っていうのが、痛いほど解って。でも「めちゃイケ」を離れるっていう選択肢はなかったから、飛鳥さんに「プロデューサーにしてくれたほうが番組に貢献できます」って言ったのよ。
大島 納得してもらったんだ。
明松 それからはプロデューサーをずっとやって、俺の番組のラストは2016年7月30日の、山本圭壱10年ぶりの復帰の回。
大島 異動か……。
明松 そうそう。7月に営業部に異動することになったんだけども、そのオンエアの収録直前だったから、営業にわがまま言って「今やってる企画が730のオンエアなんだけども、俺がいないと立ちゆかないから、1カ月延ばしてください」って、8月合流にしてもらって。それが最後。
大島 営業に異動って、すごく大きな転機っていうか。それまでは制作畑に20年いたわけじゃない。明松はどう受け止めたの?
明松 最初は受け止めきれなかった。