『流浪蒼穹』(郝景芳 著/及川 茜・大久保洋子  訳)早川書房

 カミュの『ペスト』が新型コロナウイルスの脅威に晒された現代に再発見されたように、すぐれた小説は予言的性格を持つ。星間戦争に端を発する人々の苦悩を描く本書は、2009年に脱稿されたSF小説だが、2022年に起こったロシアによるウクライナへの侵略戦争を予言しているようだ。「世界は不完全で常に欠陥を有し、永遠に打倒と再建が続く」という『流浪蒼穹』の一節は、途方に暮れている今の世界の人々の内なる声を代弁している。

 舞台は22世紀、地球人と火星移民の間に勃発した戦争は終結し、火星の若者たちが地球に留学するまでに関係は回復した。しかし留学生の1人である少女ロレインは、地球と火星の価値観の両方を持っているがゆえに、故郷に帰ってきてからも自分の居場所を見つけられず、精神の放浪者となる。社会主義的な体制を敷く火星のことを、独裁が横行して若者が強制労働させられていると思い込む地球人は、ロレインを憐れむ。火星人の中にも、欲望を制御できない地球人は腐敗と堕落に陥っていると見なし、再戦を訴える者がいる。板挟みの彼女を「ラグランジュポイント」(天体同士の重力が釣り合う場)に漂っていると表現するSF的メタファーが冴えている。多様性が声高に叫ばれる陰で、格差や断絶感が一層深刻化している今、ロレインの懊悩は現実社会とけっして無縁ではない。

「ファーストコンタクトもの」といわれるSFのジャンルがある。そこでは意思疎通もできない異星人との接触が描かれるが、本書でコンタクトするのは同じ人間同士。作中で地球人と火星人は、同じ木に実ったリンゴに譬えられる。環境の差ゆえに価値観が隔たってしまった2つの人類。言語を同じくし、共通する点も持ちながら、どこかで決定的にわかりあえないという苦しみの方が、現代人にとってはリアルだろう。

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 精神の彷徨を扱いながらもけっして重苦しくないのは、多様な古典文学の引用に彩られ、心理描写や情景描写が実に細やかで美しいからだ。ロレインはじめ、多くの悩める登場人物が杖とするのが本であり、言葉であるというのが印象的だ。「言語は光の鏡」という警句を、火星の長老はロレインに告げる。火星ではあらゆる情報がデータベース化され、だれでも引き出せるようになっている。登場人物たちは何かにつけて本を手に取り、読みふける。物語のクライマックス、遭難した地球人を助けようと戦闘機で飛び立った火星人の少年アンカが、カミュの『反抗的人間』の一節を心に繰り返しつつ、激しい砂嵐の中を決死の思いで飛行するシーンは胸を打つ。人間の苦しみはいつになっても終わることはないが、本を開けばそこに必ず救いはある。本書もまた啓示的なフレーズが随所に溢れ、それらは彷徨する現代人にとっての杖となるに違いない。

ハオジンファン/1984年、中華人民共和国天津市生まれ。作家。2006年清華大学物理系卒業、13年清華大学経済管理学院博士学位取得。16年、「北京折畳」でヒューゴー賞中編小説部門を受賞。著書に『1984年に生まれて』など。

たかやなぎかつひろ/1980年、静岡県生まれ。俳人。最新句集に『涼しき無』、評論集に『究極の俳句』『芭蕉の一句』がある。

流浪蒼穹 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

郝 景芳 ,及川 茜 ,大久保 洋子

早川書房

2022年3月26日 発売