『柩のない埋葬』(方方 著/渡辺新一 訳)河出書房新社

 わたしたちは何によってできているのだろう。ハードでいうなら、おおよそは水、それから蛋白質と脂質、ミネラルなど。ではソフトでいうと? 生まれ、育ち、思考、信仰、価値観、意思……だが体と違い、今のところまだ明確な答えは出ていない。

 古今東西、あらゆる物語は、この謎を巡って書かれているのかもしれない。

 わたしを、わたしたらしめるものは何か。

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 何をもって、わたしはわたしになるのか。

 全裸で急流の中から助け出された女性、彼女には一切の記憶がなかった。丁子桃(ディン・ズータオ)と名付けられた女性は、命を救ってくれた医師と結婚し、新しい人生を生き、ひとりの息子を儲ける。

 時折、深い水の底から浮かび上がるように、かつての人生の破片が覗く。その破片は、丁子桃に恐怖と不安をもたらし、彼女はそこから必死に逃れようとする。彼女の過去には何があったのか。彼女は何者なのか。

 記憶を巡るミステリの背景にあるのは、土地改革と呼ばれる中国の政策だ。深刻な人口増加の一方で、富が集中している状況を解消するため、地主から全てを取り上げ国のものとする。その過程には、暴力と混乱、そして多くの死者がいた。声を上げることすらできず虐げられ、殺され、消え去った人々。原題の「軟埋」とは、死者を柩に入れず直接土の中に埋葬すること。それは正に、「決絕的心態屏蔽過去,封存來處,放棄往事,拒絕記憶,被時間在軟埋」(原著「後記」より)、未来を閉ざし、過去を捨て、思い出されることすらなく、歴史に軟埋された人々だ。

 けれどこれは歴史を描いた本ではない。方方はニューヨークタイムズのインタビューに「多くの歴史の進行中の事件には、通常極めて複雑な背景と特殊な原因があるからです。それが正しいか否かは、一人の作家が判断することではありません。文学は人学で、私の小説が描こうとするのはこうした歴史の進行の中で何かに突き当たり運命を変えさせられる人びとです。社会的事件は人の背景になるにすぎません」と答えている。

 小説の中に出てくる忘れられた荘園のように、謎は謎に繋がり、過去が過去を連れてくる。ページをめくる度に、思いがけない部屋が姿を現す。どの部屋も誰かの愛した景色や、大切にしていた品物でいっぱいだ。閉ざされた人生、埋められた真実、守られるべき秘密。本を読んでいる間、人の思い出という家の中をそっと見て回る幽霊になった気分だった。

 わたしたちは家族や環境によって形作られ、思想や信仰、意思によって成長する。もし過去や記憶を失っても、わたしは失われない。人が真にいなくなるのは、前に進もうとするのを止めた時なのかもしれない。

 軟埋された人々は転生することができない。だが、方方はその人たちを小説の中で蘇らせた。

ファンファン/1955年、中国・南京生まれ、武漢在住。2010年、中篇「琴断口」で、魯迅文学賞受賞。著書に『武昌城』『武漢日記』などがあり、社会の底辺で生きる人々の姿を丁寧に描く。本作は、路遥文学大賞やアジア文学賞を受賞したが、中国本国では発禁処分となった。
 

いけざわはるな/1975年生まれ。声優・歌手・エッセイスト。日本SF作家クラブ会長。著書に『SFのSは、ステキのS』など多数。

柩のない埋葬

方方 ,渡辺新一

河出書房新社

2022年4月26日 発売