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後世を変えた「ほんのわずかのボタンの掛け違い」

 実は、江戸時代まで大宮通りやその北側の官公庁街はまとめて興福寺の境内地であった。興福寺はもともと摂関家藤原氏の氏寺で、藤原氏の氏神を祀る春日大社と事実上一体のものだった。

 しかし、明治に入って神仏分離、廃仏毀釈の流れの中で興福寺は規模を縮小、一時は廃寺同様に衰退してしまう。そのとき、国宝・五重塔も民間に売り払われて、焼き払おうとされたこともあるとか。

 

 延焼の危険性からそれはなくなったが、ほんのわずかのボタンの掛け違いで後世に残るものも残らぬものもある。そして興福寺の境内はすっかり小さくなって北側は官公庁街になり、南側は奈良公園と一体化し、いまの形になっている。

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ふたつのターミナルを持つ奈良

 いずれにしても、そんな奈良の町の中心に、近鉄は果敢に乗り入れた。JR、国鉄が遠慮がちに町外れを通しているのに、近鉄はなかなかの胆力だ。

 さらにもっと西に行けば、近鉄の線路は平城宮の跡のど真ん中を横切っている。文化財保護の関心が低かった時代のこととはいえ、できるだけ一直線に奈良の市街地へ、という近鉄の思いがこもった線形なのではないか。

 近鉄奈良駅は、1914年に当時の大阪電気軌道によって開業した。それが後にあれこれ合併して近鉄になったのだが、そのあたりの経緯は横に置いておく。

 

 むしろスゴいのは、大阪電気軌道はじゅうぶん市街地に近いいまの奈良駅の場所に満足せず、三条通りの上に線路を敷いて乗り入れて、最終的には奈良公園の中にターミナルを設けようとしたのだ。

 果敢に市街地のど真ん中に乗り入れようとする大阪電気軌道さん。さすがというか、恐ろしいというか、日本一の駅ビル・あべのハルカスを築き上げる突破力は100年以上前からのDNAなのかもしれない。

 ただ、さすがにその計画は難しく、現在地に駅を設ける形で落着した。これまたわずかの違いで、奈良の町はいまと大きく別の形になっていたのかもしれない。

 それでも市街地の近くにターミナルを設けることができたのは近鉄の勝利。市街地の真ん中に乗り入れていまや近鉄奈良駅は奈良の顔、だいいちの玄関口となった。JRの奈良駅は町の外れで、むしろ市街地が拡大するにつれて大きな役割を得ているようにも思う。

 ホテルが多く集まっているのは、近鉄よりもJRの奈良駅である。かようにして、ふたつのターミナルを持つ奈良の町は、それぞれを結ぶ三条通りを背骨としてバランス良く成り立っているのである。

それにしても…

 

 しかし、それにしても奈良公園の鹿さんはスゴい。修学旅行生に囲まれて写真を撮られていても泰然自若、まったく何も気にせず草を食む。

 たくさんのクルマの流れを強引に止めて大宮通りでビートルズができるのも、長年人とともに暮らしてきた奈良の鹿さんだからなのだろう。奈良の鹿さんくらいの堂々たる余裕があるならば、ぼくら人間ももっとストレスなく過ごせるのではないか、と思うのであった。

写真=鼠入昌史

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。次のページでぜひご覧ください。