昼食には、下宿で握ってきたおにぎりや集落のおばちゃんがつくってくれる煮物、夏には近くを流れる渓流で冷やしたスイカを食べたりもした。「松上げ」という平安時代から続く火祭りの準備に参加させてもらい、集落の家々でご馳走になることもあった。
ただ、山仕事の現場は楽しいだけではなく、過酷な作業も多い。実際に働いてみると、なぜ森林資源の豊かな日本が海外の森林を伐採して輸入するようになったのか、その理由もわかってきた。
日本では急峻な斜面に杉や檜の人工林がつくられていることが多いが、林道・作業道が十分に整備されておらず、伐採や搬出を人力に頼ることがあまりにも多いのだ。人件費を抑えられる外国産材に利があるのは明らかだった。
また、雲ケ畑では、1960年頃から人工林の植樹を一斉に始めたために、まだ木が十分に育っておらず、幅の広い板材などの生産が難しいということも知った。
そうした日本の林業が抱える問題を山仕事をしながら学ぶうちに、いつしか、私の興味は熱帯雨林の再生から、日本の林業を復興したいという思いへと変わっていった。そして、大学を卒業したら、この集落に住んで、林業をしながら地域づくりのNPOを立ち上げて生計を立てられないかと考えるようになっていた。
「自分にとっての『ふるさと』を日本で見つけることができた」
その頃は、心のなかに欠けていたピースをやっと埋めることができたと思っていた。
「売らんほうがマシや」
だが、そんな充実した山での日々も長くは続かなかった。
雲ケ畑を含む北山林業地の特産でもあった床柱の需要が、日本の住宅の洋風化によって急激に落ち込んでいったのだ。さらには、輸入材が大量に流通するようになったことで、木材の価格自体も低迷していた。マーケットの構造的な変化についていけず、私が通っていた6年の間に、雲ケ畑の基幹産業である林業は目に見えるほどのスピードで衰退し続けた。
「ここ数週間、仕事がないわ」「木が全然売れへん」「こんな材価やったら、売らんほうがマシや。元が取れへん」……。
私たちに仕事を教えてくれる山のおっちゃんたちがため息を漏らす日が増え、何人もが別の仕事を求めて町におりていくようになった。
京都市内の主な林業地ごとにあった森林組合も、効率化という名目で合併され、雲ケ畑森林組合も京都市森林組合雲ケ畑支所へと縮小されることになった。それまでは、雲ケ畑森林組合の倉庫や会議室などを山仕事サークルで自由に使わせてもらっていたが、それも難しくなってきた。