祖母は松が小学6年生のときに亡くなった。ちょうど祖母の危篤の知らせが入るのと同じくして、父が主演するミュージカル『ラ・マンチャの男』の大阪公演の幕が開ける。そのとき父は自分の母親が危篤だとはまだ知らなかったものの、それまでに病院と稽古場の往復で疲労はピークに達し、声の調子もあきらかにベストではなかった。
それまで松にとって父は常に完璧で格好よく、弱みを1ミリたりとも見せないヒーローであった。それがこのときは違い、彼女は「こんな姿をお客さんに見せてほしくない」と一瞬怒りを感じたという。だが、その思いはすぐに変わった。
《次の瞬間、あなた(引用者注:父)が、「ドン・キホーテ」そのものに見えてしまった。ボロボロになっても、夢を追い続ける男ドン・キホーテに。そして、そんな男の物語を描いたセルバンテスに重なって見えた。そしてそんな姿に拍手を送るお客さんたちの様子に心から感動していた。
祖母への思いなのか、泣きながら観ている兄の隣りで、私は不思議と冷静に舞台を見つめていました。そのとき私は、「私も芝居の道に進むのかな」と思ったんです。「芝居がやりたい!」という思いとはまた違うんだけど、あの気持ちは未だに上手く説明できません》
女性週刊誌でのバッシングに…
そんな経験もあって大河出演の話が来たときは、「やりたい」と即答したらしい。幼稚園から高校1年の1学期まで通ってきた白百合学園では芸能活動が禁止されていたが、チャンスを逃すまいと2学期から堀越高校に転入する(※2)。デビューから3年後、1996年にはフジテレビの月9ドラマ『ロングバケーション』で木村拓哉と共演し、一躍注目された。出演2作目となる同年の大河ドラマ『秀吉』では淀君を演じ、年末の紅白歌合戦では紅組司会に抜擢される。
しかし、人気が上がるにともない女性週刊誌などでバッシング記事が何度となく掲載された。松はできるだけ見ないようにしていたが、あるとき空港の売店で手に取った雑誌でその手の記事を目にし、さすがにショックを受けたという。