今年(令和4年)は、東北新幹線と上越新幹線の開業から40周年にあたる。それまでは時刻表でも「新幹線」とは自動的に東海道・山陽新幹線を意味する用語として使われていて、「東海道」や「山陽」の名は省略されることも多かった。東北・上越の両新幹線の誕生は、新幹線ネットワークが現実に全国へ拡がっていくことを日本国民に予感させた。
一方で、その頃から、全国に散在する国鉄の赤字ローカル線が次々と廃止されていった。第三セクター会社に引き継がれて生き残った幸運な路線もあるが、全国で1800km余りの路線は地元のバス会社などに地域輸送の役割を譲って姿を消した。
それから30年以上が経ち、今ではそのバス路線さえも消滅してしまったケースがある。40周年を迎える上越新幹線に乗って、そんなリアル廃墟と化したかつての国鉄ローカル線終着駅跡を訪ねてみた。
公共事業だからこそ誕生した日本海側への初の新幹線
昭和57(1982)年11月に大宮~新潟間が開業した上越新幹線は、豪雪地帯を走るため建設費や開業後の除雪対策費がかさむことから、計画段階から大蔵省(現・財務省)が「黒字になる目途がつかない」と懸念する存在だった。路線そのものには経済的な妥当性がないとみなされていたのである。
ただし、開業すれば沿線都市には大きな利益や利便性をもたらすことは予測されていた。そういう鉄道路線は、路線単体の収益を重視する鉄道会社としての観点からは建設不可能であり、公共事業でなければ誕生し得ない。
その意味では、上越新幹線は民営化以前の国鉄時代だからこそ、開業までこぎつけられたと言えるかもしれない。当時の国鉄新潟鉄道管理局が発行した上越新幹線開業記念入場券には、「日本海へグリーンライン」というキャッチフレーズ入りのロゴマークがあしらわれている。新潟という一都市にとどまらず、日本海側の都市へ新幹線が到達することそれ自体が画期的な出来事だったのだ。
乗客数は東京駅の100分の1以下・線内最少の浦佐駅
そういう位置づけで開業した路線だから、途中駅の利用客数も東海道新幹線に比べれば総じて少ない。沿線都市や地域全体の利便性向上を図ろうとした建設経緯に照らせば、路線や駅ごとの営業収支をいちいち気にすべきではないのかもしれないが、JR東日本は平成24(2012)年度から、同社に所属する新幹線の駅別乗車人員の実績値を毎年公表している。
その発表によると、越後湯沢駅の北隣である浦佐駅は、令和2(2020)年度の1日あたりの平均乗車人数が上毛高原駅の337人に次ぐワースト2位の400人。新型コロナウイルスの感染拡大前は毎年ほぼ600人台後半で、8年続けて上越新幹線内で最も乗車人数が少なかった。コロナ禍前の令和元(2019)年度の数値で比較すると、東京駅は1日平均75004人だったから、同年度672人の浦佐駅はその約112分の1である。