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集落ごと完全消滅したリアル廃墟の終着駅跡

 赤谷と終着駅だった東赤谷との1区間4.8kmは、赤谷地区の中心集落を過ぎると線路跡を転用した県道から地名を示す標識類が見られなくなり、カーナビがないと現在地の把握が困難になる。廃線後に代替輸送を担ってきたバスの運行が平成30(2018)年3月限りで終了してしまい、公共の交通機関がなくなってしまったのだ。沿道には、内部に樹木が生えているバス停の待合室がそのまま取り残されている。

廃止されたバス待合室の中で竹が成長し、屋根に突き当たっていた

 その理由は、東赤谷駅跡まで行けば一目瞭然。最盛期には東赤谷に200世帯もの鉱山関係者が住み、社宅が建ち並んでいたというが、今や集落そのものが完全消滅してしまったのである。当然、廃止の日まで国鉄職員が常駐していた東赤谷駅の痕跡も見当たらない。そもそも「東赤谷」という地名さえ、現地ではカーナビの画面以外に目にしない。

東赤谷駅跡【◆】。右の道路は線路から転用された県道。列車はこの右の急坂を上ってきて、スイッチバックして左側の平坦部に設けられた東赤谷駅に到着していた

 過疎化が進んで無人化した地域は他にもあるが、ここは人工の建造物がことごとく撤去されて、集落全体がほとんど自然に還ってしまっている。国鉄末期に廃止されたローカル線の終着駅跡で、これほど何も残っていないのは全国的に見ても珍しい。

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東赤谷駅の廃止記念入場券(著者所蔵)。券面の写真は上の駅跡の写真と正反対のアングルから同じ場所を撮影しており、比較すると、当時の線路が今の道路になり、坂道の右側にある平坦部に駅があったことがわかる

 こんな場所にバスを走らせたところで、利用者がいるはずもない。むしろ、国鉄の地域輸送機能を引き受けたという昭和末期のいきさつを地元のバス会社が律儀に守り、平成末期まで30年以上もよくぞこの場所までの営業運行を続けたものだと思う。近年、全国各地でJRのローカル線が利用者の減少に悩まされているが、その結果として鉄道が廃止されると、30年後にその地域はこうなるかもしれない、ということは知っておいてよいのではないだろうか。

写真=小牟田哲彦

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 ◆印の写真は『「日本列島改造論」と鉄道―田中角栄が描いた路線網』(交通新聞社新書。6月15日発売)に収録されています。

「日本列島改造論」と鉄道 (交通新聞社新書161)

小牟田哲彦

交通新聞社

2022年6月15日 発売

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。次のページでぜひご覧ください。