「私はそれ以前に隣町小川町で接骨院を経営していまして、2つ目の事業として民泊を考えていました。ところがその物件を探し始めたら、ときがわ町でなかなかみつからなかった。生まれ故郷の越生町にいくと結構空き家が出ているのに、なぜときがわでは空き家が出ないのか不思議だったので、役場のホームページを見たら移住希望者が100世帯くらい待っていて、空き家は2、3軒しか出ていなかったんです。役場の人に聞いたら町に不動産屋がないからだという。これはちょっとまずいなと素人ながらに思ったんです」
不動産業の素人が不動産屋になったワケ
実は尾上は、接骨院を開業して営業が軌道に乗るまでの1年間ほど、近隣の不動産屋にパートで勤めていたことがある。それ以前の20代の頃、勤めていた司法書士事務所の所長から、「国家資格は何でもとっておいたほうがいい」と言われて宅地建物取引主任者(現・宅地建物取引士)の資格をとっていたからだ。
本格的に不動産業の経験はないものの、このとき思った。
「私にも不動産屋ならできる」
ときがわ町の移住者向けの物件斡旋をイメージして、不動産業を開業したのだ。
ところがこれに、昔の同僚たちは大反対だった。当時をこう振り返る。
「昔お世話になった不動産会社の部長に『ときがわ町で不動産業をやります』とご挨拶の電話を入れたら、『あんたわかってんの?』って。田舎の空き家物件なんて価格が安すぎて手数料が稼げない。手間がかかるだけ。事業として成り立たないからやっても無駄。損するだけ。もう1回考えろって、そう言われました」
そう言われても─と、尾上は考えた。ときがわ町に移住したい人は大勢いる。それに対して物件がない。市場に出てこない。この状況を改善できるのは不動産業者しかいない。でも儲からないから既存の業者がこの町に入ってこないのはわかった。ならば私がやるしかない。そう直感した彼女は、猛然と走りだしたのだ。
もともと尾上はパワフルな人だ。30代で結婚、妊娠、出産、育児を経験し、3人の子どもを育てながら日帰り温泉のマッサージ師として働いた。その仕事が自分にあわないと感じると独立を考えて、接骨院を開業。その事業が軌道に乗るまで、介護施設でも働きパラレルワークで凌いだ。大変な生活だったが、転んでもただでは起きないのが尾上の特徴だ。
接骨院は2年間赤字だったが、介護施設でいいセラピストと出会い、接骨院に招いてから経営は軌道に乗る。そこで民泊業を考えて起業塾へ。さらに町の課題を感じて流れるままに不動産業へ。常に2つ3つの仕事を手がけるバイタリティの人なのだ。
そのバイタリティに加えて、このときの尾上にはもう1つの切り札があった。
それは不動産の「素人」だったこと。こう振り返る。