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「完璧な人生だった」年収1000万超えのアメリカ人が少年33人の命を奪う“殺人ピエロ”に堕ちるまで

『トゥルークライム アメリカ殺人鬼ファイル』 #3

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 ゲイシーはその後、ビジネスの専門学校を卒業して、靴メーカーに就職。営業マンとしての働きぶりは高く評価されていたようで、すぐに管理職候補となり、やがて部長にまで昇進した。

 また、ゲイシーはアメリカで有名なリーダーシップトレーニング団体である青年会議所「ジェイシーズ」に参加し、たった数年で地域の副会長にまで上りつめるなど、頭角を現している。イリノイ州で3番目に優秀なメンバーとして表彰を受けたほどで、順調にその才覚を発揮していった。

 一方、プライベートでは1964年に元同僚だったマリーン・マイヤーズと結婚。2人の子宝にめぐまれた。

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 マリーンの父親が所有していたフランチャイズの飲食店、3店舗の経営を兼務し、ゲイシーはここでも優れたビジネス手腕を発揮する。日本円でおよそ1300万円を超える年収を得るなど、経済的な成功を収めた。

 後にゲイシーはこの時期を振り返って、「完璧な人生だった」と語っている。確かにこの時期、ゲイシーの人生が最高潮にあったのは間違いないだろう。

「完璧だった人生」が狂う時

 明確に歯車が狂いだしたのは、2人目の子供が生まれた翌年、1967年の夏のことだった。

 ゲイシーは青年会議所のメンバーの息子で、15歳の少年ドナルド・ヴォルヒーズを「うちで映画を見せてあげるよ」と自宅の地下室に連れ込んだ。

 映画の準備をしている段階から酒を飲ませ、映画が終わる頃にはドナルドが酩酊状態に陥っているのを確認すると、ゲイシーは少年の手に現金を摑ませ、性交を強要した。

 しかし翌1968年3月、ドナルドがこれを告発。ゲイシーはたちまち逮捕された。

 隠蔽工作を画策したゲイシーだったが、別の被害証言も明らかとなり、禁固10年の有罪判決を受けることになる。

 それまでの模範的な父親像からすれば、家族や周囲の驚きは相当なものだっただろう。判決に合わせ妻のマリーンが離婚を申し出ていることからも、ショックの度合いが窺える。

 獄中で家族も仕事もすべて失ったゲイシー。しかし彼は、「ジェイシーズ」の刑務所支部の活動を本格化させ、受刑者の待遇改善に貢献するなど、いつしかリーダー的存在へと上りつめていった。

 日頃の模範的な態度もものを言ってか、ゲイシーは10年の刑期満了を待たず、1970年6月、わずか1年半で仮釈放が認められる。ゲイシーの服役中、父ジョン・スタンリーは亡くなっていた。

 しばらく飲食店でアルバイトをしながら当座の生活費を稼ぎ、足りない分は母親からの資金援助を受けながらどうにか生活していたゲイシーだが、そのうちシカゴ近くに牧場を購入し、そこで暮らすようになった。