数いる凶悪殺人犯の中でも「アメリカ史上最悪」と恐れられるのがジョン・ウェイン・ゲイシーだ。殺害した少年の数は33人、自宅からは29人分の遺体が見つかったことで世間を震えさせた。一体、何が彼の殺人衝動を突き動かしたのか?
犯罪大国アメリカで実際に起きた凶悪殺人事件の真相に迫る、同名の犯罪ドキュメンタリー番組を書籍化した『トゥルー・クライム アメリカ殺人鬼ファイル』(平山夢明監修)より一部抜粋してお届けする。(全3回の3回目/#1、#2を読む)
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父親から“欠陥品”扱いされた少年時代
特技の手品を生かし、言葉巧みに若い男性や少年を自宅へ誘い込んでは殺戮を繰り返していたのが、ジョン・ウェイン・ゲイシーだ。
ゲイシーが弄び、殺害した犠牲者は、判明しているだけでも33人にのぼる。これはその当時のアメリカ史上最多の犠牲者数である。
1942年3月17日、ジョン・ウェイン・ゲイシーはイリノイ州シカゴで、カトリックを信仰する両親のもとに生まれた。
父親のジョン・スタンリーは、昔気質の機械工で気難しい性格の持ち主だった。彼は生まれつき脳内に腫瘍があり、その影響から突発的に情緒不安定に陥ることがあり、妻や子供たちに暴力を振るうことも珍しくなかったという。
一方のゲイシーもまた、生まれながらに心臓疾患を抱え、運動を制限されていた。そんな我が子を“欠陥品”ととらえ、失望したスタンリーは、いっそう息子への虐待をエスカレートさせていく。
蔑まれ、怒鳴られ、革のベルトで何度も殴られる毎日。それでもゲイシーは乱暴で横暴な父親を愛し、すべては酒の仕業であると飲み込んで、一切の抵抗をしなかった。
そんな父親からの暴力に耐え、病のため入退院を繰り返しながら育ったゲイシーは、18歳になると民主党候補者の選挙運動を手伝い始めた。この頃から自分の考えをしっかり意思表示するようになっていたゲイシーは、父親と口論の末、とうとう家出を決意する。
シカゴから怒りにまかせて車を走らせること、およそ3000km。気がつけばネバダ州のラスベガスにたどり着いていたゲイシーは、ある葬儀社の霊安室スタッフとして職を得た。父親のもとに戻る気がない以上、とにかく仕事に精を出すしかない。
ゲイシーは次々と運ばれてくる遺体のそばに簡易ベッドを置いて、昼も夜もなく働きつづけた。
ある晩のことだった。自分と同世代とおぼしき男性の遺体が運ばれてくると、ゲイシーは不思議な感情にとらわれ、棺を開けてその体を抱きしめた。
衝動的な行動だったが、すぐに我に返ったゲイシー。自分のとった異常な行動が恐ろしくなり、その翌日、彼は3ケ月ぶりに帰宅した。