異国の地でひとり過ごした瀬戸が考えたことは…?
「同年の冬にはしばらくアメリカに行っていたはずです。瀬戸が得意とする短水路(25mプール)で開催される12月のFINA世界短水路選手権に向けて、練習拠点をアメリカに移し、ひとり武者修行に励んでいました。結果的に大会本番でも200mと400m個人メドレーの2冠を達成。400m個人メドレーでは5連覇を達成する見事な泳ぎを披露し、世界にもう一度『Daiya Seto、ここにあり』をアピールすることができました」(前出・スポーツ紙記者)
同時に、異国の地ではひとりでじっくり今後について考える時間を持ったという。
「なぜ東京五輪で結果が残せなかったのか」
「このまま水泳人生を終えても良いのか」
そんなことを考えるなかで、瀬戸は東京五輪前に気づいていながら認めることができなかった「失敗の原因」にたどり着いたのだという。
競泳関係者が解説する。
コロナでの五輪延期も影響…?
「シンプルな話ですけど、結局五輪でダメだった理由は絶対的なトレーニング量の不足なんです。スキャンダルもありましたけど、それ以前から瀬戸のトレーニング量の低下については関係者の間では時折、話題に上っていましたからね」
瀬戸という選手はトップアスリートの中でも稀有な集中力を持ち、どんな大舞台であっても全力を出し切れる力を持っている。だからこそ、仮にトレーニング量が不足していたとしても、その時点の力を100%出し切ることでうまく“ごまかす”ことができてしまった。
そして、それなりに結果が出ていることで、トレーニングも五輪に向けた調整も「順調である」と思いこむことができた。ところが周囲から見ると、東京五輪の延期が決まって以降、明らかにそれ以前よりトレーニング量が減っていたのだという。
「大きかったのは幼少期から二人三脚で歩んできた梅原孝之コーチとのコンビ解消でしょう。集大成を迎えるはずだった2020年の五輪という、“終わり”が決まっていたからこそ、厳しいコーチの下で辛いトレーニングも、苦しい節制もやり抜くことができていた。ところが2020年の3月にコロナの影響を理由に五輪延期が発表され、一体いつまで頑張れば良いのか分からなくなってしまった。結果的に緊張の糸は切れ、そのまま梅原コーチとの師弟関係も消滅。新たなコーチには同級生を選びましたが、それではどうしてもなあなあになってしまいがちでした」(前出・スポーツ紙記者)