小川自身も中学、高校時代に真剣にバレーボールに取り組んではいたものの、指導者としての経験は浅い。そこで他校の指導者たちに教えを請うと、彼らは口を揃えるように「女子は男子と違う」と言ったという。
「男子バレーでも部活ではうさぎ跳びでコート10周なんていうのが当たり前でしたが、女子の場合はなおさら厳しくしなければいけない、と言われました。『女子は依存心が強い』『手をあげてでも厳しく練習させる必要がある』と教わりました。『本当にそうなのか?』という疑問も頭をよぎりましたが、まだ自分の方法を実践する勇気はありませんでした」
東京で名の通った指導者たちが口を揃えて「厳しくする必要がある」と言い、小川自身も怒鳴りつけられながらバレーに取り組んできたため、最初は小川もスパルタ式の練習を選手に強いたという。
「厳しい指導でなければならない、型にはめて自分の色に染めなければいけない、そう考えて取り組んでいました。もちろんその根本は、チームを強くしたい、勝たせたいという思いです」
「生徒に手をあげるんだったら、全員引き揚げる」
当時の東京から全国大会に出るためには、八王子実践高校、共栄学園高校などの名門校に勝つ必要があった。
「それら強豪校に追いつき追い越すには、もっと厳しく、もっと猛練習しなければ勝てないと思っていました。八王子実践が1日8時間練習すると聞けばこっちは10時間、共栄学園の練習終わりが午後9時ならこっちは11時まで。『先輩の指導者たちが言っているのだから』と手を上げてしまったこともあります」
それでも、下北沢成徳の成績は伸びなかった。転機が訪れたのは1980年代後半、小川が「33歳か34歳の頃」だった。
「成徳に卒業生が何人も入っている中学校の先生が成徳の練習を見に来た時に、『生徒に手をあげるんだったら、全員引き揚げる』『お前のは指導じゃない、ただ怒っているばかりじゃないか』とこう言われたんです」
指導方針を否定されたとき、小川は悔しくてその言葉を素直に認められなかったという。しかし時間をおいて、後から後から小川の心にその言葉は残った。