「マンスプレイニング」という言葉にたじろぐ男たち
――本書の中で、男性が女性にえらそうな態度で説教する「マンスプレイニング」についても鋭い指摘をしていますね。
北村 説教したがらない男たちもなぜ「マンスプレイニング」という言葉にたじろいでしまうのか、という観点から、言葉による「しるし」の有無が浮き彫りにするものについて論じました。
たとえば「作家」に「女流」というしるしのついた「女流作家」という言葉はありますが、「男流作家」はありません。つまり、「女流」というしるしの有無で、デフォルトなのか例外かが区別されていて、この例では(作家といえば男性で)女性の作家は例外的だというニュアンスを含んでいます。
マンスプレイニングや、マンスプレッディング(公共交通機関で男性が足を広げて座っている行為)は、「マン」というしるしによって、そんなふるまいは社会のなかで例外的なものであることを浮き彫りにします。
男子文化のなかで大目に見られていた行為がじつは社会のデフォルトの礼儀ではないことを急に突きつけるような言葉に、男性たちはびっくりしてしまうのだと思います。
名づければ、社会の檻をやぶる強力な道具に
――こうした言葉の概念が広がることで、いままで半ば無意識にとっていたような問題行動が可視化されますね。
北村 言葉によって名前をつけることはすごく大事なことです。たとえば「セクハラ」という言葉が広まったことで、それまで水面下で横行していたセクシャルハラスメントをあぶり出す契機となりました。無論、名前をつけた時点でそこからこぼれ落ちる要素もあるので、そこには自覚的である必要がありますが、言葉は社会の檻をやぶる強力な道具になります。
2010年代以降の、性差別と人種や階級、ジェンダーアイデンティティなどとの交差を重視し、SNSを積極的に活用する潮流を第4波フェミニズムと呼びますが、情報メディアの発達により、だれでも発信できるようになった意義は非常に大きい。たとえば、MeToo にしろインターセクショナリティという言葉にせよ、ずいぶん前からスローガンとしてあったものですが、近年のSNSにおいて一気に認識が広がりました。
私たちを縛り付けている社会の問題点を率直に批判し、風通しよく、誰でも話し合えるコミュニティをつくることが大切だと思っています。それは性別を超えて、すべての人が自分らしく楽に生きられる道だと思っています。