無意識のふるまいに対する問いを向けなければ、自然に身についた「偏り」には気づきません。子どもを「自由にのびのび」育てるだけでは、構造化された社会的なバイアスから自由に生きられないのです。
自由にのびのびというのはある意味幻想で、社会的な要請やその家庭での習慣に従っているだけかもしれない――人は思っているほど自由でない、と認識したほうがいい。有害な「らしさ」に対する気づきがなければ、自分と他者を縛り付けている檻は打ち破れません。
「それは男にも起こりますか?」という問い
――日本の女性たちをめぐる「らしさ」の檻で、とくに強く感じられるのはどんな点ですか?
北村 私が大学の教員をしていることもあり、とくに厳しい女性への縛りを感じるのは就職活動においてです。就活の指導にはものすごくジェンダー差があって、女性の側には、美しくお化粧をしなさい、面談では必ず膝をぴたりと閉じましょう、ヒール付きのパンプスを履きましょう等々、さまざまな押し付けがあります。それらを守らないと就職できないという恐れからみんな受け入れてしまっていて、日本企業も大学側も全員檻のなかに入って出ようとしない状況を感じます。
――いまの例でいうと、社会人としてのマナーの要素とジェンダー問題はどのように線引きしたらよいのでしょうか。
北村 その点に関してはイギリスのジャーナリスト、キャトリン・モランが『女になる方法――ロックンロールな13歳のフェミニスト成長記』(青土社、2018)で明確なチェック法を打ち出しています。「それは男にも起こりますか?」と聞くことですね。つまり、社会的な常識の範疇なのか性差別なのか迷ったとき、これが男でも同じことが起こるのかどうかを判断基準にするんです。
――それは分かりやすいですね。
北村 これは地域差が大きいとは思いますが、たとえば子育てにおいて、一歩下がって相手を立てろとか、人の意見に表立って反論するなとか、それを「美徳」として女の子にだけ求めているとしたら性差別でしょう。
様々な社会的な因習を解き放つことの難しさはよく理解できるので、やりたくない、やるつもりがないという人がいるのは当たり前ですが、少なくとも、そこから自由になろうとしている人の考え方や行動にたいして、中傷したり冷笑したりするような行為は慎むべきだと思っています。