――デビューから所属されているのは生島企画室ですもんね。生島ヒロシさんが立ち上げ、フリーアナウンサーの方も多く所属されています。
優木 小学6年生の時、テレビでアメリカ大統領に英語でインタビューする日本人の女性アナウンサーを見て、「カッコいい!」と思ったのがきっかけです。中学生の頃にはアナウンサーになるんだ、と決めていたと思います。
大学受験の時、東京の大学に進学してアナウンサーになる夢を追いかけたいと両親に相談すると「お金がないから国立大なら」と。猛勉強の末、合格したのが東京学芸大学でした。
アナウンサー採用試験で全滅、夢がゼロに
――そして大学3年生の就職活動でテレビ局のアナウンサー採用試験を受けたんですね。
優木 でも、結果は全滅でした。悔しかったけど、うちは裕福な家庭じゃなかったし、就職浪人や留年という選択肢は考えられませんでした。急に夢がゼロになって、この先どうしようかと悩んでいた私を拾ってくれたのが今の事務所でした。当時の社長が、「局アナじゃできないことをやって売れたらいいんだよ!」と言ってくれたので、じゃあ何か自分らしさを模索してやっていこうって思ったのが、22歳の時です。
――どういう活動を始めたのですか?
優木 ちょうどそのころ、大学の友達にバンドのボーカルをやってみないかと誘われて。歌うことには興味があったので、挑戦することにしました。2年間くらい、ひたすら全国をまわって路上ライブをするうちに、MC力も培われて(笑)。気づいたら、ライブに200~300人くらいのお客さんが集まってくれるようになったんです。その話を聞きつけた出版社の方に、「グラビアをやりませんか」と声をかけられたのが25歳の時です。正直、この時は結構迷いました。
――グラビアでの活動は想定していなかった。
優木 私の軸になっていたのは、アナウンサーになりたいという夢でしたから。歌を始めたのも、客観的に見て自分にはまだ局アナに勝てるものがないと思ったからです。でも、このまま歌でやっていけるほどの才能が自分にあるとは思えなくて。紅白歌合戦に出るようなアーティストになれるのかと言われたら、それは無理な気がする。そんな迷いに加え、焦りもありました。
当時の私はまだ就職活動で失敗してしまったことを引き摺っていたんだと思います。同年代の子たちはみんな働いているから、地元に帰れば「いま何の仕事しているの?」と聞かれますよね。いつまでも歌ってますって言っていていいのかな、就職して親を安心させたいな、とかいろんな思いがあって。
――そんな時に、グラビアのお話があったんですね。