時は幕末、文久3年。舞台は尊皇攘夷の動きも盛んな折の江戸。ここまで聞いて、幕末志士たちの青雲の志を賭けた活劇が繰り広げられる――と思ったあなた。それは早合点である。
「いやいや。どなたが読んでくださっても荒唐無稽だ、という感想しか出てこないと思いますよ(笑)」
主人公は相撲取り。薩摩藩お抱えの力士がいままさに他藩のライバルと立ち合わんとする場面から話は始まる。だがここで、かの雷電為右衛門のような天下無双の英雄譚を期待すると、また肩透かしを食らう。
「どうにもスーパーヒーローの活躍というものが苦手な質でして。司馬遼太郎さんの描く竜馬像よりも、藤沢周平さんの描いた市井の人々の方にシンパシーを感じます。人間ってやっぱり弱いものですから」
主人公の三峰山岩蔵は、ある出来事をきっかけに相撲界追放の憂き目に遭う。同じく親方から見放された元力士と意気投合し、2人だけで相撲興行を打つもうだつの上がらぬ日々が続く。やがて小説は思いがけない飛躍を始める。著者本人が“荒唐無稽”というが、まさか! ウソ! が連発すること請け合いだ。
「朝日カルチャーセンターでSF作家・光瀬龍さんの小説講座に通っていました。私自身は、勝手に光瀬さんの遺伝子を継いでいるつもりなので、普通の時代小説と違うのは、そのあたりが理由かも知れません」
前作『慶応三年の水練侍』で朝日時代小説大賞を受けて華々しくデビュー。以来、時代小説とスポーツ小説の融合に果敢にチャレンジしている最中だ。
「実はもともと歴史はあまり好きではないんです。それよりは断然スポーツの方が好きで、海老沢泰久さんの作品をよく読んでいました。物を調べるのは得意なので、史実のピースとピースの間を想像で埋めていく作業がたまらなく楽しい。スポーツを題材にした小説には、落伍者が臥薪嘗胆してカムバックして栄光を掴む筋書きが多いと思うんですが、これに時代モノを絡ませていくと、ありふれた話とは違うものが書けるという手応えがありました」
タイトルの『ぼくせん』とは、オランダ語でボクシングを指す。幕末期、相撲対ボクシングの他流試合があった記録は残るが、本作ではそれをさらに一歩進め、滅法面白い読み物に仕上がった。
「どうせ同じ人間がスポーツについて考えることなら、今も昔もそう大して変わりはしないんじゃないか、なんて無茶苦茶なことを考えて書いています(笑)」
時代小説とスポーツ小説の異種格闘技戦は、かくて一級の娯楽小説を生んだ。
『ぼくせん 幕末相撲異聞』
維新の機運が高まり時代が変わろうとする頃、江戸の回向院では身分の上下を問わず人気を集めた相撲の興行が盛んだった。薩摩藩お抱えの力士、三峰山岩蔵は前頭七枚目。そこそこの番付に満足していた彼はひょんなことから角界を追放される。活計を求め悪戦苦闘の日々を送る中、やがて相撲以外の人生を見つけ――。