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「日本語版がもっとも素晴らしかった」

 声優は平面的な絵に向けて声をのせるので、立体的なお芝居をする傾向があります。だからデフォルメをより効かせた演技になる。それが聞く人に上手と思わせる話し方です。でもそれは、下手をするとどこか定型的というか、枠にはまったようなものに聞こえてしまう。

 僕はそこから出たいなという気持ちがありました。

 この『アイズ ワイド シャット』では、とにかく「リアル」な演技を求められました。その辺でみんながしゃべっている姿を切りとったようなリアルな演技。それは、キューブリックがトムに求めたものでした。トムも仕事には徹底的にこだわって人任せにしない俳優です。その2人のこだわりがぶつかりあってできた演技。そしてレオンは、それと同等なものを僕に求めてくるんです。

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 今までのような演技ではまったく太刀打ちできないわけです。とはいえキャスティングはもう決まっているし、降りるという選択肢もあり得ない。

 だからこそ、僕も下手に刃向かおうとせず、今まで培ったキャリアという鎧もすべて脱ぎ捨てて、裸のままレオンに演技のすべてを委ねることにしました。

 レオンに徹底的に委ねたからこそ、それまでの声優人生にはなかったタイプの仕事ができたんだと思います。こんな仕事の仕方は、それまでもそれ以降も他にはありません。僕にとって役者としてのターニングポイントになった経験でした。

 それによって自分がもっと上に行くことができたと感じています。そしてこれ以降、人が嫌がるような役、大変な役を率先してやりたくなりました。アニメのオーディションも、なぜかよく受かるようになりました。そのせいか、この頃は知り合いに「ビデオレンタル店に行くと森川ばかりだ」と言われていましたね(笑)。

 「たぶんこう求められているんだろうな」というのが、もう一段深いところで理解できるようになったからかもしれません。言葉の壁がある中で意思疎通をはかる苦労をしていたせいか、相手の断片的な言葉や、完璧ではない言い回しに含まれている大事な何かを、そっとすくい上げるようなことができるようになったというか。

 自分の中ではこの『アイズ ワイド シャット』を境に、何かが変わった気がしています。

 レオンは各国語版の吹替えを作る作業を最終的にはロンドンで行っていました。トムも一緒に各国語版をチェックしたそうです。そのときにトムが「日本語版がもっとも素晴らしかった」と言ってくれたと聞いています。

 以前にNHKの番組で僕を特集してくれたことがありまして、レオンと連絡を取ってくれました。当時彼が僕宛てに送ってくれた手紙を紹介したり、トムも使ったというアフレコ用のマスクをプレゼントしてくれた話を披露しました。本当に宝のような思い出です。でもそのマスク……大切にしまい過ぎて、今どこにあるか分からないんです(笑)。