豆を蒸す温度も105度が適当とされていたが、五十嵐さんは110度と高めにした。「菌が残りにくい」と考えたからだ。
製造後は菌が増えないうちに冷やそうと、1時間半で2~3度に下がる機械を導入した。
豆腐は相馬市内と北接する新地町、油揚げは南接する南相馬市の学校給食にも提供していた。五十嵐さんは学校に運び込んだ時に1度以下に保てるよう、氷を敷きつめるなどの工夫をした。
材料に対しても誠実さを貫き、豆の量は絶対に削らなかった。むしろ多めに使い、1丁333グラムとされていた給食用は「育ち盛りの子供達にいっぱい食べてもらいたい」(よし子さん)と、350グラムで製造していた。
豆の品質は油揚げの出来上がりに直結した。このため、「五十嵐豆腐店の油揚げは、物を巻いた時に破れない」と言われていた。
食べた人は「また食べたい」と思った。「給食と同じ豆腐が欲しい」と子供にせがまれて、わざわざ店に買いに来る親もいた。相馬に転勤して「美味しい」と驚き、買うようになった人もいた。
夜は4時間の睡眠で起きなくてよくなった。手のガサガサもきれいに治った。体は楽だ。しかし…
だが、これはもう過去の話だ。
「私は最低でも75歳までは作るぞと考えていました。たぶん75歳になっても止めはしなかったでしょう。それがこんなことになって……。オヤジは86歳まで作ったのに」と、肩を落とす。
夜は4時間の睡眠で起きなくてよくなった。手のガサガサもきれいに治った。体は楽だ。しかし、生活から張りが消えた。
「まだまだ元気なので、もし豆腐屋をやりたいという若者がいれば、持っている技術は全て伝えたいと思っています。でも、私と同じような生活ができるかどうか。私は豆腐屋しかないと思って家業を継ぎましたが、もう豆腐屋をやろうという人は出てこない時代かもしれませんね」
地震がもたらした突然の終止符。
また一つ名店が消えた。
撮影=葉上太郎
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