平明でありながらどこかユーモラス、そして深い言葉の数々を残した樹木希林さんが亡くなってもうすぐ4年が経つ。独特の人生観で多くの人に影響を与えてきた彼女は、どのような考えで生涯を送ってきたのか。
ここでは、樹木希林さんが遺した言葉と、内田也哉子さんが紡いだ言葉をまとめ、「ままならない人生を生きる意味」に寄り添った書籍『9月1日 母からのバトン』(ポプラ社)の一部を抜粋。日本で唯一の不登校専門紙『不登校新聞』のインタビューで樹木希林さんが語った幼少期の思い出を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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ありがたい存在との出会い
――私が取材したいと思ったのは、映画『神宮希林 わたしの神様』の中で、夫・内田裕也さんについて「ああいう御しがたい存在は自分を映す鏡になる」と話されていたからなんです。これは不登校にも通じる話だなと思いました。
あの話はお釈迦さんがそう言ってたんですよ。
ダイバダッタは、昔はお釈迦さんの従兄弟かなんかで、同じように手を合わせていたんだけど、お釈迦さんのほうが先に悟りを開いたのを憎たらしいと思って、邪魔ばかりしてた。ちょっと出かけているあいだにお弟子さんを連れていっちゃったり、お釈迦さんの名声が上がるごとに命を狙ったりね。
お釈迦さんは、そのダイバダッタに対して、ダイバダッタは前世で自分の師匠だった、今世では自分が悟りを得るために同じ場所に生まれてさまざまな難を与えてくれているのだ、と悟るわけです。自分に対して災いを起こし、不本意なことをやってくる人間を、逆に私にとっての“師〞であるという気持ちで受け取るのだ、と。
私もそうだなあ、と思いましたね。18歳のときに、たまたま役者の道に入っちゃったけど、いろんな人に出会って、普通に結婚したりいろんな目にあったりして、今日70歳を過ぎて、今日みなさんにお話を聞きたいと思っていただけたのは、やっぱり私がたくさんのダイバダッタに出会ってきたからなんだな、と思います。
無傷だったら人間として生まれてくる意味がない
もちろん、ときには自分がダイバダッタだったこともあります。ダイバダッタに出会う、あるいは自分がそうなってしまう、そういう難の多い人生を卑屈になるのではなく受け止め方を変える。そうやって受け取り方がひとつ違ってくるだけで、天と地ほどに見え方が変わってくるんじゃないですかね。