「退院してから一番困るのは、あの人なんじゃないかな」
事情通のおばさんから聞いた話で一番驚いたのは、一見ごく普通に見える男性患者の話でした。
脳梗塞で倒れて、三日三晩意識が戻らなかったので、「お父さん、もうダメだわ」と奥様は悲嘆に暮れたのだとか。ところが、何の前触れもなく、ひょっこり目を覚ましたそうです。病院内を車椅子も使わず、普通に歩いているし、声も身体も、健康そのものに見えます。作業療法の部屋ではパソコンのキーボードを叩いていたほど。
でも、事情通の奥さんは、意外なことを私に教えてくれました。
「退院して自宅に戻ったら、一番困るのはあの人なんじゃないかなあ。地図が読めなくなっちゃったから、ひとりで街を歩くのは無理だと思う。奥様がついていればいいけど」
脳梗塞の患者の症状は、損傷した箇所によって様々です。
片麻痺、意識障害、失語、知能低下、記憶障害、人格低下、視力低下、複視、嗅覚低下……。
損傷箇所のほんの少しの違いで、その先の人生がまったく変わってしまいます。
私の場合は、失語症と物が二重に見える複視、そして右半身の麻痺と知能低下です。数字はどこかに行ってしまったし、お釣りをもらうのも難しい。それでも、頭の中に地図が残っていたのはラッキーでした。ひとりで外出できるからです。
病院の広い庭には桜が植えられていて、3月22日に開花したので、数日後の昼休みには何人かでお花見をしました。5、6人の患者と看護師さん、お医者さんと、療法士さんたち。
桜はいいですね。特に病院で見る桜はグッときます。
脳梗塞のあと、劇的に変わった私たちの生活。もはや後戻りはできません。それぞれの人生を生きていくしかないのです。
車椅子に乗った同部屋の奥さんが私に言いました。
「足が治ってほしいけど、なかなか難しいでしょう。でも、障害者手帳がもらえればディズニーランドで並ばなくてもいいのよ。リハビリを頑張って、一緒にディズニーランドに行こうよ!」
ディズニーランドと障害者手帳の関係がいまひとつわからなかったのですが、どうも優先的に入れるらしい。患者は厳しい現実を目の前にしても絶望することなく、明るい未来を見ています。
4月に入ればリハビリ期間も終盤です。ある日、私は作業療法士の先生と一緒に駅まで歩いて買い物をしました。久しぶりにシャバに出たわけです。
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