ひとりの彫刻家が、ノミと槌を手に40年をかけて彫り続けた高さ10m、幅2.5mの巨大なマリア像(聖母子像)がようやく完成した。像はこの夏、島原の乱の犠牲者を慰霊するため、神奈川県藤沢市のアトリエから900km離れた長崎県南島原市へ移送された。
鎌倉大仏とほぼ同じ大きさのマリア像
そのマリア像は天窓から降り注ぐ夕陽を浴びて、幼子イエスを抱きながら穏やかに目を閉じていた。クスノキの木肌から醸される芳香と艶やかな肌質が、慈母の名にふさわしい神々しさを醸している。しかも高さ10mという存在感に圧倒される。見上げれば、誰もがマリア像の懐にそっと包み込まれるような錯覚に陥るはずだ。
神奈川県藤沢市の中部に広がる2万5000坪の緑濃き高台「みその台」に、そのマリア像はたたずんでいた。みその台は、カトリック系宗教法人・聖心(みこころ)の布教姉妹会の敷地で、女子修道院、女学校、乳児院、児童養護施設、高齢者施設などが点在している。
昭和から、平成、令和に至る40年をかけてマリア像を彫り続けた彫刻家・親松英治(おやまつえいじ、88)は、女子修道院から牛小屋と農機具小屋だった簡素な建物をアトリエとして借り受けた。1階と2階の床をぶち抜いてもマリア像は収まりきらず、天井をくり抜いてドーマー窓を設け、ヒザから頭頂部までと、ヒザから裳裾までを分割して像全体を屋内に収めている。鎌倉大仏(像高11.31m)に匹敵する大きさだ。
樹齢200~300年の巨大なクスノキを、輪切りにして積み重ねていく独自の方法で製作。ノミや金槌、滑車に吊り下げたチェーンなどを駆使して、たったひとりで彫り進めてきた。見上げたときにマリアとイエスの表情がはっきり分かるよう、像の頭部がやや前方に傾ぐよう調整を重ねた。
自身に万が一、不測の事態が起きても、作品として成り立つようにまず頭部を仕上げ、上半身、下半身へと彫り進めたという。
戦死した3万人のキリシタンらを悼みたい
親松は1934年、新潟県佐渡の農村に生まれ、武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)で彫刻を専攻。プロの彫刻家として独立してからは、日本最大の総合公募美術展「日展」で入選や審査員を重ね、2011年には日展の最高賞「内閣総理大臣賞」を受賞した。彫刻家としてのキャリアを順調に重ねていた親松はなぜ、途方もないマリア像の制作をライフワークにしたのか。
「35歳の頃、人生の全てを賭けた、自身の限界に挑戦するようなテーマを探し求めていた。当時、江戸時代に起きた島原の乱を深く知り、原城の戦いで命を落としたおびただしい数の犠牲者を追悼する場所が無いことを気に掛けていた。やがて、誰に頼まれたわけでもないのに、島原の乱の犠牲者を慰める像を人生の全てを捧げて作りたいと思うようになった」