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 島原の乱は、1637~38年に起きた日本史上最大の一揆だ。

 肥後天草、肥前島原の領主による過酷な年貢の取り立てがあり、年貢を納められない農民と改宗を拒んだキリシタン(クリスチャン)への拷問・処刑に農民たちが立ち上がった。幕政に不満を抱く浪士らも加わり、一揆軍は浪士の子のキリシタンで16歳の益田四郎時貞(天草四郎)を総大将として、廃城となっていた原城(長崎県南島原市)に籠城する。

 将軍徳川家光と江戸幕府は威信をかけて13万人もの連合軍を動員し、原城を総攻撃。籠城していた一揆軍は婦女子も含め3万人が皆殺しとなる。幕府軍も1万人が犠牲となった。

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 日本では安土桃山時代から江戸時代にかけてキリスト教が激しい弾圧を受け、世界に類を見ない大量の殉教者が出た。カトリックには、列聖審査で徳と聖性が認められた物故信徒に「聖人」「福者」「尊者」の称号を与えて、その生涯を讃える慣習がある。

 例えば、豊臣秀吉によって1597年に長崎で磔刑に処された「日本二十六聖人」は1617年に福者、そして1862年にはワンランク上の聖人に列せられた。

親松の後を追う原城の犠牲者たち

 だが、キリシタンの悲劇で唯一、島原の乱の犠牲者は殉教者と認められていず、列聖審査の対象にすらなっていない。

 カトリックは殉教について、「キリスト教の信仰や道徳を放棄するより、苦しみや死を選んで信仰の“証し”をすること」と定義。十字軍の戦死者や島原の乱の犠牲者など、国のために犠牲になる「殉国」、死を甘んじて受けた「無抵抗な死」は殉教とみなしていないという(トロヌ・カルラ著『キリスト教殉教と歴史的記憶~日本の殉教者の歴史的記憶と宗教的アイデンティティ~』)。

 また、一揆軍のキリシタンの大半は、司祭や宣教師による正式な洗礼を受けていず、仲間同士で洗礼し合っていた。島原の乱の犠牲者は、クリスチャンの集団という定義からも外れているというのがカトリックの見解だ。

 だが、原城跡には今もたくさんの遺骨が回収されずに眠っている。親松は、無抵抗な女性や子供を含むおびただしい数の犠牲者を生みながら、現地に慰霊のための象徴的な施設がひとつも無いことに割り切れないものを感じていた。

アトリエ前の親松さん ©Jun Tanaka

 原城跡は1992年から発掘が進められているが、城跡に近い資料館の準備室を訪れた親松は、原城跡の人骨が泥のついたまま段ボール箱に積み上げられている光景を目にし、館員からごく小さな骨のカケラを分けてもらい(※のち返却)、マッチ箱に収めた。アトリエに持ち帰って制作中のマリア像の胸に安置し、殉教者を思いながら製作に励むつもりだった。

 その晩、ホテルで寝ていた親松は、朝まで床が激しく振動する幻覚に襲われた。一睡もできない中、親松は、「遺骨の一部を持ち帰ったので、きっと原城跡に眠る犠牲者たちが大勢で追いかけて来たに違いない」と解釈する。

「その時、彼らを弔うものを作るのが私の使命という、義侠心のような気持ちが湧き上がり、あなたたちのためにマリア像を作り上げると霊たちに誓った」(親松)