このポール・ラッシュ博士による開拓で清里はリゾート地として注目されるきっかけをつかむ。1960年代からすでに学生たちが合宿などでやってきていたようだ。ただ、本格的な清里ブームのはじまりは1970年代になってから。その時代に創刊された女性誌が、相次いで清里を取り上げたのだ。
たとえば、「an・an」の1972年9月20日号。小海線全体を特集する記事の中で、清里が取り上げられている。翌年にも「an・an」は清里を紹介し、並んで「non-no」も清里を特集。
この時期の「an・an」や「non-no」は毎号旅をテーマにした特集記事を展開しており、それを読んだ若い女性が実際にその地を訪れる“アンノン族”が一大ブームになった。かくして1970年代、清里にはアンノン族の若い女性がやってくるようになったのだ。
清里の空気を作ったのは「an・an」「non-no」ではなく…
ただ、この頃の「an・an」「non-no」は、取り立てて変わった切り口で清里を取り上げていたわけではない。牧場で牛の乳搾りをして乗馬を楽しみ、森の中を歩いて高原の空気を吸う、などという王道の高原リゾートを勧めていた。メルヘンリゾートとはまったくベクトルの違う旅の提案だった。
それが変わりはじめるのは1970年代の終わり頃。「an・an」「non-no」はいずれも70年代の後半には旅特集の頻度を減らしており、むしろアンノン族とは違う方向からそれはやってきたといっていい。
1978年には清里で最初のペンションが誕生。それからは一気にペンションブームとなって、清里には雨後の竹の子のごとくペンションが建てられる。
民宿や清泉寮が中心だった清里の宿泊環境が大きく変わり、清里を舞台にした少女マンガも人気を博した。そうした中で、女性誌は“ペンションの町”“ファッショナブルな町”として清里を取り上げるようになってゆく。
こうなれば町がメルヘンになるのもとうぜんの流れ。1982年にはワンハッピープラザが開業し、そこには東京資本の有名ショップも進出するなど、“原宿化”が進んでいくことになる。
そこにビートたけしや松田聖子、酒井法子らのタレントショップも加わった。1986年には三浦友和・山口百恵夫妻の親族が経営するペンションが開業した、などというニュースも話題になっている。