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駅前通りと国道がぶつかる交差点にたくさんのクルマが停まっている駐車場が

 なので、駅前から少し歩いてみることにした。駅前からまっすぐ伸びている道を進んでいくと、国道とぶつかる。この国道141号はずーっと下っていけば中央自動車道の須玉ICに通じているので、東京からこのあたりにやってくる人はこの道を使うのだろう。

 

 そして駅前通りと国道がぶつかる交差点。そこにはたくさんのクルマが停まっている駐車場があった。看板には「萌木の村」と掲げられている。それこそバブル以前から、清里高原のあるがままの魅力を提供してくれている清里きっての観光名所だ。

 

 さらに国道からひとつ路地に入ると小洒落たレストランや牧場などが点在している小路に通じていて、こちらはなかなかの観光客の数。人が溢れてたいへん、などということはさすがにないが、手軽な避暑リゾートにはまさにぴったり、といった落ち着いた空気が流れている。避暑リゾートの清里高原、メルヘン廃墟ばかりに目が行くのはむしろ邪道で、まったく死んではいないのだ。

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「リゾート」清里はいつから生まれたのか

 そもそも、清里がリゾート地になったのはいつからなのか。実は清里の歴史はかなり新しい。

 小海線の清里駅が開業したのは1933年。だが、このときの役割はリゾートでもなんでもなくて、木材の輸送が目的だった。八ヶ岳山麓、豊富な森林資源に恵まれている一帯だから、それはごく自然なことだ。この時代の清里は、まだまだ何もない不毛の森林地帯であった。

 変化のきっかけは、昭和10年代にはじまった小河内ダムの建設だ。小河内ダムは奥多摩湖ともいい、つまりは東京の奥多摩地区に広がる都民の水がめ。そのダムの建設のために、建設予定地に暮らしていた人たちが立ち退きを余儀なくされた。そうして新天地としてやってきたのが清里だったのだ。

 

 しかし、不毛の森林地帯、標高が1000mを超える山麓の地。開拓は困難を極めたという。それを救ったのが、戦後やってきたアメリカ人宣教師のポール・ラッシュ博士。清里に農村センターを設け、酪農を産業として定着させて清里発展の礎を築いた。ポール・ラッシュ博士が開いた清泉寮という宿泊施設はいまも清里のシンボルとして、駅から北西に離れたところで営業を続けている。