新宿のゴールデン街の飲み屋で坂本君が…
――達郎さんの世代は、いまだ“現役”の音楽家が多いですよね。日本のポピュラーミュージックを牽引してきた“戦友”は数多いと思いますが、同世代で「友人」と呼べる存在を挙げるとすると。
山下「坂本(龍一)君かな。彼がYMOのメンバーになる前、70年代半ばから2年半ほど、それこそ毎日のように会っていた時期がありました。数年前、久しぶりにゆっくり話す機会があったんですが、距離感はまったく同じだった」
――『戦場のメリークリスマス』に出演、音楽も担当して以来、“世界のサカモト”と呼ばれて久しい存在ですよね。今となっては、ちょっと意外な人脈とも思えますが。
山下「初めて会ったのは1974年頃で、福生にあった大瀧詠一さんのスタジオでのリハーサルでした。それまで面識はなかったんですが、坂本君は新宿高校、僕は竹早高校で、同時期に高校紛争を経験しているんです。年齢的には坂本君が一級上。僕が高校をサボって、茗荷谷の喫茶店のテレビで三島(由紀夫)自決の臨時ニュースを観ていた1年前、坂本君は学校に3人だけだった某マイナー新左翼のメンバーとして、長髪・下駄ばきで校内を闊歩してたそうです。ちなみにあとの2人は、後年衆議院議員になった塩崎恭久さんと、『アクション・カメラ術』で有名になった馬場憲治さん。
そういう背景もあって、坂本君とは初対面からウマが合った。新宿のゴールデン街の飲み屋で、彼が東京藝大で専攻していた現代音楽について客と論議を戦わせているのを眺めていたり、行きつけのライブハウスの酒を飲み尽くしたり(笑)」
――「政治の季節」を共有された。
山下「坂本君にしても僕にしても、70年安保で人生が狂ったクチなんです。これはよく言われることですけど、60年安保を機にドロップアウトした人たちが流れた先が雑誌メディア。雑誌文化は60年代安保世代が作ったと言えるんです。同じ世代が年を重ねるのに合わせて、雑誌も対象年齢が上がっていってますよね。育児雑誌、中年雑誌と来て、今や老人雑誌が花盛りになっている。
リベラル系の運動に参加しようとは思わないけど
一方、われわれ70年代安保世代が流れたのは音楽メディア。たとえば、そうだな、谷村新司さんは、元々は佐藤春夫に憧れて詩人を目指していたところに、ビートルズが出てきたせいで、アリスを結成することになったそうです。60年代の音楽にはそういうパワーがあった。その圧倒的な衝撃に引き寄せられて、本来ミュージシャンになんかならないでいいやつが音楽業界に入ることになったんです。その後の音楽業界が革命的に爆発した背景には、そういう歴史的事実があります。
そういった濃厚な時代を共有していると、それから何年経とうと、何年会わなかろうと、友達は友達なんです。今となっては政治的なスタンス、意見の違いというのはそれなりにあって、僕としては彼がやってるリベラル系の運動に参加しようとは思わない。人間というのはおもしろいもので、そうした立場の違いが分かつ関係もあれば、分かたない関係というのもあるんですよね。僕と坂本君の場合は後者でね。たまさか、彼のほうから声をかけられることもなくはないけど、“ごめんなさい。ダメです”と答えればいいだけで。だからって友達でなくなることは、決してないんです」
――いい関係ですね。
山下「あの人がまた、その手の運動が好きだから。あるでしょう、野坂(昭如)さんとか大島(渚)さんとかのような、何というか、おっちょこちょいな感じ。でも憎めない(笑)」
――達郎さんからすると知的な“おっちょこちょい”に見えるんですね。
山下「同じ高校紛争を経験してはいても、彼と僕では家庭環境も違いますからね。坂本君のお父さんは、三島由紀夫を担当した河出書房の名編集者。聞いたところによると、親戚は軒並み東大という家系だそうで。
僕の家は真逆でね。祖父の代から没落続きなんです。祖父も父親も工場経営に失敗して、小学生の頃から両親は共働き。ずっと鍵っ子でした。しかもひとりっ子なので、おのずとひとり遊びが上手になる。ラジオで落語を聞いて物まねをしたりするような孤独な小学校時代を送ったことは、間違いなく僕の人格形成に影響していると思います。高校時代は留年すれすれのところまで行って、未来のことなんて何も考えられない時期を数年過ごしたし」