羽生の叔母も幼い羽生に独特の感性を感じていた。
「(いとこ同士で遊んで)帰るときに、うちの子たちはすごくさらっとしているのに、『また来るねー』ってボロボロ泣いて帰る。感受性が豊かで、気持ちが集中する子だなとは思っていました。
考え方も昔から面白かった。まだ有名になる前、国内の大会で優勝したときです。『これからもがんばってね』と声をかけたら、『がんばるっていうのは僕にはもういらないんだよ』と返されたことがあった。もっと先を考えているのかなって印象を受けました」
運動神経の良さと、独特の感性。だが努力する姿勢は羽生にまだ備わっていなかった。
小学校2年生「ヤンチャ坊主でしたね」
前出の山田氏が地元・北海道に戻ることになり、彼女は羽生を、元五輪選手の佐野稔氏らを育てた都築章一郎氏に託した。
「都築先生は本当に厳しい人で、今はだいぶ柔らかくなったんですけど、『先生、厳しいやり方でやったら、結弦絶対やめちゃうから、そうなったら本当にもったいない。それだけはしないでね。絶対うまくなる子だから』って再三言って渡したんです」(山田氏)
だが羽生はその厳しい指導を受けてもやめなかった。都築氏は幼い羽生に世界の舞台を目標にさせたからだ。都築氏が語る。
「初めて会ったのは、小学校2年生のときでした。ヤンチャ坊主でしたね。(スケート仲間の)年上のお兄ちゃん達ともよく喧嘩をしていて、負けず嫌いでしたよ。お預かりしたときから、将来世界に羽ばたく選手にしたいと考え、本人ともそういう言葉を交わしながら育てたつもりです。とにかく基本を厳しく教えました。はじめは普通の子でしたが、スケートの世界にのめり込むにつれて、高い目標を持つようになりました」
平昌五輪までの3カ月間、リンクに立てない間は、イメージトレーニングでジャンプを跳んでいたという羽生。その習慣は都築氏が教えていたこの頃からあった。
「昔からイメージトレーニングをしっかりやる子でした。自分のエレメントを完成させるためのイメージを常に持って、氷の上に上がっていたと思います。それをやることで効果的に、効率的に成果が出ることを子供ながらに感じていたはずです。ロシアのエフゲニー・プルシェンコらのビデオをよく参考にしていました。そこから得られるイメージをもとに練習に取り組んでいました」
少年の羽生は、自分にとってのアイドルだったプルシェンコの髪型を真似て、マッシュルームカットを貫いた。
その後、羽生が中学生になる頃、都築氏は東京に移り、仙台では阿部奈々美氏が羽生のコーチとなった。その頃には山田氏が知る練習嫌いの羽生の面影は消えていた。山田氏が語る。