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「奈々美先生が『これができるようになるまで練習してごらん』と言うと、結弦は止めるまでずっと練習し続けると言っていました。その頃から一気にうまくなっていって注目される存在になった。『才能がある奴が努力するからこうなるんだよね』と奈々美先生は言っていました」

子供たちに「負けるなよ」

 さらに、見た目からは想像がつかない精神的タフさを羽生は図らずも身に着けることになった。それは3・11の震災を経験したことだ。仙台で練習中だった羽生はスケート靴を履いたまま、リンクを飛び出した。

「震災で仙台のリンクが閉鎖になり、私のところに来て練習していました。スケートを続けられるかどうかということを経験し、滑る機会を求めてアイスショーにも出て、たくさんの方から応援をいただいて再出発した。そんな経験が今回のケガのような逆境でも大きな支えになったのではないでしょうか」(都築氏)

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 その後は、羽生は母とカナダ・トロントに渡り、マンションとリンクを往復するストイックな日々を続けた。五輪連覇を目指して、練習に集中していた彼が、昨年8月、都築氏が指導の場とする横浜市のリンクに珍しく姿を見せた。

「震災のときに結弦もこのリンクにお世話になったので、時間を取ってくれたんです。エキシビションをやってくれて、子供向けスケート教室も開いてくれました。『負けるなよ』『強くなれよ』と言葉をかけながら指導していたそうです」(都築氏)

 目標としていた「絶対王者」になった羽生。引退も囁かれていたが、現役続行を宣言した。

「もうちょっとだけ、自分の人生をスケートにかけたい」

 彼が次に自らに設定したストーリーは、誰も成功していない4回転半ジャンプ。再び理想主義者の羽生に戻り、誰の足跡もない道を歩き始めた――。