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「うちのユヅだけ、みんな集まってくるんだよな。才能でもあるのかな」

 父・秀利がこう漏らすのを、羽生の叔母は聞いていた。叔母が振り返る。

「兄は、有名な選手に、ユヅくんが声を掛けられると言っていました。最初の頃から(息子をフィギュアの道に進ませようと)決めていたと思います」

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浅田真央を見てアクセルに挑戦

 由美は息子の衣装を自ら縫い、憧れのエフゲニー・プルシェンコ(ロシア)と同じ髪型にカットした。

「食事には苦労していました。ユヅくんは小学校低学年まで、お寿司1つ食べさせるのも大変な少食だったんです。餃子が好きで、そこにチーズや野菜といった好きな物を入れて作ったり、本当に手間をかけて、工夫していました」(同前)

 名伯楽・都築章一郎の指導を受け、実力をつけていく羽生。だが、フィギュアはレッスン料や用具代など出費がかさむスポーツだ。羽生家は家賃5万円の県営住宅で暮らすごく普通の家庭。そんな中、才能溢れる羽生を見て、夢を諦めた女性がいた。高校生でフィギュアを辞めた姉だ。

「成績が伸びなくなっていたこともあると思います。弟がぐんぐん伸び、お姉ちゃんは察して身を退いた感じ。『違う道を』ということになったみたいです。幼い頃は口喧嘩ばかりしていたようですが(笑)、本当に弟想いで母性愛が強い子。後に弟と母がカナダに行ってからは、仕事で忙しいお父さんのために家事も頑張っていました」(同前)

 家族のサポートを得た羽生。小学6年生になった羽生の指導を都築から受け継いだのが、振付師としても活動する阿部奈々美だ。

「阿部も仙台市出身で女子シングルの選手でした。引退後は浅田真央のコーチとして知られるタチアナ・タラソワらに師事。荒川らの振付も担当してきました」(フィギュア担当記者)

 当時の羽生を知る恩師の一人が振り返る。

「羽生はジャンプを練習したがる男子の中では珍しく、ダンスが上手で表現力が抜きん出ていた。阿部コーチも『体が柔らかく、自分の演技を表現できる』と、才能に惚れ込んでいました」

 今では羽生の最も得意なジャンプとなったトリプルアクセルをマスターしたのは、13歳の時。2008年夏、有望な若手を発掘する野辺山合宿で“あの選手”のジャンプを見てからだ。

「なかなかトリプルアクセルを跳べなかった彼が、真央ちゃんを見て『僕もやれるよ』と言って、すごく練習したんです。リンクは夜8時までなのに、『練習を終わりにしないで』と続けようとして。こちらが『もう終わり』と練習を打ち切ろうとした時、ようやくトリプルアクセルを跳べたのをよく覚えています。空中での姿勢のコツを掴んでからは、次々跳べるようになっていきました」(同前)

14歳でジュニアGPファイナルを制覇

羽生のスケート人生を変えた“東日本大震災”

 阿部コーチのもと、09年に史上最年少でジュニアGPファイナルを制覇。高校に進学した10年にシニアデビューを果たしたが、翌11年3月、彼の人生を大きく変える出来事が起きる。