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〈プロ転向〉4歳の羽生結弦に実父も驚き「うちのユヅだけ、みんな集まってくる」…“ごく普通の家庭”の少年がトップスケーターになるまで

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 東日本大震災だ。アイスリンク仙台も使用できなくなり、羽生は都築が当時指導していた横浜のリンクを借りて練習を続けた。そこで都築から、海外に拠点を移すことを勧められる。

 都築本人が明かす。

「震災後はスケート場もなくなり、日本では練習できる場所がなくなっていた。羽生自身は日本を離れることを望んではいなかったんですが、『海外へ行ったほうがいいんじゃないか』とお母さんに話したんです。そこから城田さんに紹介して、(ブライアン・)オーサーのもとへ行くことになりました」

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 95年から日本スケート連盟の理事を務め、“女帝”と呼ばれていた城田憲子。06年に発覚した不正会計問題で引責辞任したが、

「その後も海外との豊富なコネクションを持ち続けていました。彼女は、有望な選手とこのコーチを組ませたら伸びる、というマッチングが得意な人。オーサーには、バンクーバー五輪(10年)で彼の教え子のキム・ヨナが金メダルを獲った時から、『いずれ日本の選手もお願いします』と約束していたそうです」(スポーツ紙デスク)

 海外行きを決めた由美は、阿部と今後について話し合いを持とうとした。が、阿部は多忙を理由にかわし続けたという。12年3月の世界選手権で3位になった羽生。その試合を最後に阿部のもとを去り、オーサーが待つカナダのトロントへと渡る。阿部は周囲に、

「ヤフーニュースで(カナダ行きを)知った。こんな悲しいことはない」

 とこぼすのだった。

 羽生をここまで育てた女性コーチの阿部。ボタンの掛け違いもあり、二人は以来、別々の道を歩むことになる(阿部は「取材は全てお断りしています」と回答)。

 一方の城田は、トロントの住居やスポンサー探しなど競技に専念できる環境を整える役回りも担った。翌13年から、羽生はANA(全日空)に所属。16年には、城田自身もANAの監督に就任している。

(#2へ続く・文中敬称略)

〈プロ転向〉4歳の羽生結弦に実父も驚き「うちのユヅだけ、みんな集まってくる」…“ごく普通の家庭”の少年がトップスケーターになるまで

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