7月19日、都内で記者会見に臨んだフィギュアスケーター・羽生結弦(27)は、注目されていた去就について「プロのアスリートとしてスケートを続けていくと決意」したと語った。これからは競技会に出場しないが、プロスケーターとして4回転半ジャンプへの挑戦を続けていくという。
“ごく普通の家庭”で育ったという羽生は、なぜ世界トップスケーターになれたのか。これまでの歩みと関係者取材から見えた“4人の女性キーパーソン”を詳報した「週刊文春」の特集記事を前編・後編にわたって特別に公開する。(初出:週刊文春 2022年2月17日号 年齢・肩書き等は公開時のまま)
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ソチ、平昌、北京。羽生結弦の傍らには、彼を愛した4人の女性がいた。別れの道を選んだ人もいれば、自らの夢を諦めた人もいる。そして“ラストダンス”まで支え続けたのは――。誰も書かなかった「絶対王者」の物語(全2回の1回目/#2へ続く)。
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2月5日午前、男子フィギュアのショートプログラム(SP)を3日後に控えた北京の首都体育館。実際のリンクで行われる最後の公式練習に「絶対王者」は姿を見せなかった。会場には、彼のフリー曲「天と地と」が鳴り響くだけだった。
その日の深夜。北京から2000キロほど離れた「アイスリンク仙台」(宮城県仙台市)からは煌々とした灯りが漏れていた。ここは、新型コロナウイルスの感染が拡大して以降、喘息の持病を抱える羽生結弦(27)が拠点を置く地元リンクだ。日付が変わっても一向に消えない灯り。羽生家の車が自宅マンションに戻ったのは、深夜2時のことだった。
翌6日朝、深夜の練習から休む間もなく、仙台空港から成田で乗り継ぎ、昼に北京の空港に降り立った羽生。本番2日前という直前での現地入りは、五輪では異例だ。選手村にも入らず、調整を重ねたという。
迎えた8日のSP。ところが、冒頭の4回転サルコウが1回転になり、8位に終わってしまう。自らの不運に、演技後はこみ上げる涙をこらえるようだった。
振り返れば、栄光に彩られたかに見えるその道のりは、試練や別れの連続でもあった――。
「うちのユヅだけ、みんな集まってくるんだよな」
羽生は1994年12月、宮城県仙台市で生まれた。中学教諭の父・秀利、百貨店に勤めていた母・由美、4歳年上の姉という4人家族。フィギュアを先に始めていたのは、姉だった。
羽生が初めてスケート靴を履いたのは4歳の時。30分の個人レッスン中は遊びたくて集中力がもたない。だが、ジャンプは見よう見まねで跳べてしまう。その才能は一目瞭然だった。荒川静香らトップ選手も練習を積んでいた当時のリンク。彼らの目にも、羽生は特別な存在に映っていた。