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 ヨーロッパへの研修留学も経験。約2年にわたり、主にドイツでディーゼル機関車の内燃機関などを研究した。

 満洲に戻った後、技術者として携わったのが、特急「あじあ」の開発だった。満鉄は「世界一の特急列車」の開発を目指していたが、星名もその巨大プロジェクトに参加したのである。

満鉄時代のSL あじあ号を牽引したパシナ型蒸気機関車 ©文藝春秋

 その後、星名は大連機関区長、奉天鉄道局輸送課運転係長などを経て運輸局次長という栄職に就任。満鉄時代の後輩である小西秀二は星名についてこう述べている。

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〈思ったことは必ず、やり通すという強い信念のお方〉(『星名秦の生涯』)

その日、ソ連軍がやってきた

 そんな星名の生涯を一変させたのが、ソ連による満洲国への侵攻だった。昭和20(1945)年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告。翌9日未明、満洲国への侵攻を開始した。約157万人もの大軍が、満洲国への攻撃を始めたのである。

満州に侵攻したソ連軍部隊

 8月13日、星名は部下らを率いて避難を開始。しかし、逃避行中の15日、日本の敗戦を伝える一報が届いた。星名らの間に失意と脱力が広がった。

 だが、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかなかった。星名はすぐにプロの鉄道マンとしてのやるべきことに着手したのである。

満洲各地で起こるソ連軍の暴虐…「引き揚げ邦人の安全」は星名に委ねられた

 満鉄がすぐに対応しなければならなかったのが、日本へと引き揚げる邦人たちを安全に輸送することであった。その全面的な指揮役となったのが星名だった。

 ソ連軍は満洲各地で日本人への虐殺や略奪、強姦などを始めていた。8月14日には、徒歩で避難中だった日本人が満洲に侵攻したソ連軍に襲われ、戦車に下敷きにされるなどして1000人もの民間人が殺される「葛根廟事件」も起きている。

 そんな中、星名は新京(現・長春)に戻り、邦人引き揚げに関する対処、調整、決断を次々と下していった。少しの対応の遅れが被害者の拡大に繋がる。結局、満鉄の的確な列車の運行により、多くの邦人が間一髪で難を逃れることができた。