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 3年生になると主将に選出。工学部の星名は実験などで多忙だったため、昼休みのうちに練習着を着込んでおき、授業が終わるとすぐさまグラウンドに駆け出していった。まさに「文武両道」を地でいく青春だった。

 部内におけるニックネームは「テキ」「テキさん」。テキサス出身というのがその由来であった。明るく楽しい雰囲気が「星名組」の特徴だったと伝わる。

名門、悲願の初優勝

 名門の京大ラグビー部だったが、いまだ全国優勝の経験はなかった。「星名組」は初の栄冠に向けて厳しい練習に励んだ。

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 昭和2(1927)年の秋から始まったシーズン、主将の星名を中心とする京大ラグビー部は開幕から好調。ライバルの東京帝国大学に22−0と完封勝利を収めるなど、優勝争いのトップに立った。

 昭和3(1928)年の元日には、明治神宮外苑競技場にて当時の絶対王者である慶應義塾大学と対戦。超満員の観衆が見守る中、11−5で慶大を下した。さらに1月7日には同じく明治神宮外苑競技場にて早稲田大学と対戦。この試合に勝てば初優勝が決まるという大一番を14−11でものにし、ついに悲願の初優勝を飾ったのだった。星名らは歓喜の涙を流したという。

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卒業後、鉄道マンになった星名は特急「あじあ」の開発に

 京大ラグビー部を初の頂点に導いた星名秦は、京大卒業後、日本の満洲政策の根幹を担う半官半民の南満洲鉄道株式会社(満鉄)に就職。日本国内ではなく海外での職を選んだのは、開拓民の先駆けとなった父親譲りと言えるであろうか。

 半官半民の満鉄は、日本の満洲経営の中核を担った一大コンツェルンである。鉄道はもちろん、鉱工業や商業、観光事業といった多角経営によって事業を拡大。戦前の日本における最大級の企業であった。

 京大工学部卒の星名は、そんな満鉄に本社幹部社員という待遇で採用された。正式な配属先は、鉄道部運輸局運転科鉄道係である。結婚して、子宝にも恵まれた。