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 星名のもとには、一つの連絡が入っていた。妻子が暮らす奉天(現・瀋陽)の自宅に、混乱に乗じた現地の住民らが侵入し、家財道具のほとんどを略奪されたという連絡であった。

 それでも星名は職場を離れなかった。星名は避難民の輸送を最優先し、自身の任務に集中した。当時の同僚である松本林弌は後にこう綴っている。

〈難民輸送の総指揮をとるのは満鉄広しと言えどもテキさん以外になく、テキさんを新京に釘付けにしてしまった。家族のことが気がかりでない筈はないのに、一言もそれを口にされなかったという〉(『星名秦の生涯』)

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 元京大ラグビー部主将による見事な「邦人救出劇」だった。

 その後、満鉄は解体され、ソ連の指揮下に組み込まれた。星名はソ連側から旧満鉄側の実質的な責任者に指名された。星名はソ連側と様々な交渉を重ねた。星名はこの時期、まだ40代前半であったが、心労の結果であろう、その頭髪は真っ白になってしまったという。

 結局、星名はその後も自身の帰国を後回しにし、引き揚げ業務などに集中。星名がようやく帰国できたのは、昭和22(1947)年のことであった。満鉄のエリート幹部だった星名だが、無一文となっての帰国だった。

帰国後、星名は…

 昭和24(1949)年、星名は同志社大学工学部の教授に就任。ラグビー部の指導にもあたった。京大ラグビー部での指導も行い、海外の最新理論を取り入れたラグビーは「星名ラグビー」と呼ばれた。

 昭和41(1966)年には、同志社大学の学長に就任。時はちょうど学園紛争の時代であり、学生たちとの徹夜の交渉を重ねた星名は、心身ともに疲弊して体調を大きく崩した。

 昭和52(1977)年9月26日、星名は逝去。73年間の激動の生涯を閉じた。一部のネット上では「昭和59年逝去」との情報が出回っているが、これは間違いである。

 命日さえ間違って伝えられるほど、星名は知られざる存在となった。しかし、彼が終戦直後の動乱を極めた満洲国で残した功績については、史実に沿ってしっかりと語り継ぐべきであろう。「引き揚げ」という一語の陰には、名ラガーマンの奔走があったのである。