第五福竜丸の乗組員たちを襲った「死の灰」
第五福竜丸の乗組員で、2021年3月に他界するまで反核を訴え続けた大石又七(事件当時20歳)は、著書『ビキニ事件の真実 いのちの岐路で』(みすず書房、2003年)で、当時の様子を次のように記している。
気がつくと、白い粉が雨に混じっている。「何だ、これは……」と思っているうちに雨は止み、白い粉だけになった。まるでみぞれが降るのと同じだ。そしてデッキの上にも白く積もり、足跡がつくようになっていた。(中略)粉には危険は何も感じなかった。熱くもないし臭いもない。なめても砂のようにジャリジャリして味もない。ただ揚げ縄は風上に向かっての作業なので、首元から下着や目の中にたくさん入り、チクチクと刺すように痛く、真っ赤になった目をこすりながら辛い作業を続けた。
乗組員たちは体や甲板にも積もった白い粉を海水で洗い流したが、夕方から目まい、頭痛、吐き気、下痢、食欲不振、微熱、目の痛み、歯茎からの出血を訴えた。粉が付いたところは火傷のように膨らみ、一週間ほど経つと脱毛が始まった。帰港後、乗組員らを診察した医師は、広島・長崎の被爆者と同じ「原爆症」ではないかと直感。症状の重い2人は東京大学附属病院に入院することになった。
白い粉は、水爆が粉砕したサンゴだった。東京大学などの分析では、20種以上の放射性物質が検出された。長崎原爆の材料であるプルトニウム二三九や甲状腺障害を起こすヨウ素一三一、自然界には存在せず、白血病や骨のがんの原因となるストロンチウム九〇などが含まれていた。後に「死の灰」と呼ばれた放射性降下物だった。
東京都江東区夢の島に、第五福竜丸展示館がある。同館は第五福竜丸の船体を展示するとともに、水爆実験の詳細を伝えている。ここでは、採取された実物の「死の灰」を見ることができる。
筆者が同館を初めて訪れたのは2021年1月。片手に収まる小さなガラス瓶には、ごく少量の白い、細かなパウダーが閉じ込められ、瓶底と側面にこびりついていた。プルトニウム二三九の半減期は、2万4000年だ。外に出ないよう、黒いキャップで堅く閉じられている。
その小瓶を前に、キャップが開いたところを想像せずにいられなかった。小麦粉と言われればそうとも見える、白い粉末が空を舞う。息を吸って、口の中に入り込むところを頭に浮かべると、粉末が喉奥に張り付くような感覚に喉が渇いた。ツバとともに飲み込むと、それは血とともに体内を駆け巡って、どこかの臓器に滞留するだろう。そして、いつ排出されるかわからない。白いごく少量のパウダーは、「死の灰」と呼ばれる放射性降下物だ。そうと知らずに大量に取り込み、後にその正体を知った大石らの恐怖はいかほどだったろう。