戦後、広島、長崎の両被爆地では、原爆放射線の急性障害や白血病といった原爆症に倒れ、急逝する人が相次いでいた。しかし、それにもかかわらず被爆者に対する国の支援が開始するまで12年もの年月を要した理由とは?
毎日新聞記者の小山美砂氏による新刊『「黒い雨」訴訟』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)
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原爆被害者が見殺しにされていた12年間
戦後、広島、長崎の両被爆地では、原爆放射線の急性障害や白血病といった原爆症に倒れ、急逝する人が相次いでいた。しかし、被爆者に対する国の援護施策が始まるには、時間を要した。というのも、1952年4月までは連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下で検閲制度が取られており、被爆の実態はほとんど知られていなかったのだ。
地元の医師たちが地道に治療を続け、広島市が原爆障害者調査を実施するなどの動きがありながらも、国による医学的・経済的援助がなく、原爆被害者が見殺しにされていた期間は、終戦から12年間も続いた。
本章では戦後、被爆者援護がどんな経緯を辿って整備されたのか見ていく。それは、黒い雨被爆者を切り捨てる制度がどのように形作られてきたかを知る前提となるため、少々遠回りに感じるかも知れないが、お付き合い願いたい。
被爆者の救済に向けて、全国的な大きな動きが生まれたのは、連合国軍による占領が終わってから2年後の1954年。マーシャル諸島のビキニ環礁で実施されたアメリカの水爆実験により、日本のマグロ漁船が被災する「第五福竜丸事件」が一つの契機となった。この事件は、言論統制下で潜在化していた被ばくの実態を明らかにし、核兵器の全面禁止に向けて国民を駆り立てた。この年は、広島、長崎に続く3度目の核被害に見舞われ、原爆被害者にもようやく光が当てられた点で重要な意味を持つ。そして、その被害は「黒い雨」と類似性があった。
水爆もまた、放射性降下物をもたらした。それは、白い、「死の灰」だった。
アメリカは終戦翌年の1946年7月1日、ビキニ環礁で戦後初の核実験を実施。1958年までに、隣のエニウェトク環礁の分も含めて計67回の実験を行った。
静岡県焼津港所属のマグロ漁船「第五福竜丸」が水爆実験に巻き込まれたのは1954年3月1日午前6時45分(現地時間)のこと。水爆「ブラボー」が海上で炸裂し、乗組員は西の空に大きな火のかたまりが浮かぶのを目撃した。午前9時頃には、雨に混じって白い粉が降り、雨が止んだ後も粉だけが降り続いたという。