民家が全くないような地域に駅がつくられたワケ
歴史を紐解くと、駅が開業した当時は、秘境ではなかったということがわかった。
天竜川流域のこの地域では、かつて最も主要な交通手段は水運だった。伐り出された材木を筏にして天竜川に流し、物資や人も船で移動していたのだ。小和田付近には筏だまりがあり、中継地点になっていた。つまり、小和田は水運の要衝ともいえる場所だったと言える。
小和田駅が開業した当時、駅は北側からの終着駅で、南側の豊橋方面へは線路が敷かれていなかった。線路が繋がっていない大嵐駅(大嵐駅は小和田駅の一つ南方に位置する駅)までの間は船舶で連絡していたことからも、水運が重要な交通経路だったことがうかがい知れる。
飯田線が全通した昭和12年、天竜川流域に大きな変化がもたらされる。天竜川の流れによって支えられてきた人や物の動きは、早くて快適な鉄道へとシフトしていった。
決定的に流れが変わったのは、昭和31年に日本屈指の規模を誇る佐久間ダムが竣工したことだ。筏や船はダムを越えられないため、水運は完全に断たれた。もちろん人・物の動きは一変した。
また、佐久間ダム竣工によって、上流域の水面は大幅に上昇し、一帯はダム湖となった。現在、小和田駅のすぐそばを流れる天竜川は、実は佐久間ダムのダム湖だった。かつて小和田に存在した集落は、移転した建物以外は全て湖底に沈んでしまったのだ。
複数の家屋が建ち並び、水運の要衝として栄えていた小和田。
冒頭で紹介した製茶工場には遠くの産地からも茶葉が持ち込まれていたという。それがダムによって水運が断たれ、集落とそれに付随する道路、対岸を結んでいた橋も全て水没した。そして、駅だけが残った結果、小和田駅は秘境駅と呼ばれるようになった。
現在、小和田駅の対岸には県道1号、通称・佐久間街道が通っている。天竜川を渡る橋さえあれば、小和田駅は秘境駅と呼ばれていなかったかもしれない。
写真=鹿取茂雄
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