――素晴らしいお話を聞かせていただきありがとうございます。そういえば劇中でヤコブがリジーを見つめるとき、カフェの鏡越しや窓を介して彼女を見ることが多かったように思うのですが、もしかして監督自身がレアを窓越しに初めて目にしたことと、何か関係があるのでしょうか。
エニェディ どうでしょう、それはわからないけど(笑)。ある意味でリジーは、ヤコブの人生に起こる物事すべてを突き動かす秘密の力のような存在です。まるで禅の導師のように、彼女は人生にまつわる様々なことをヤコブに教えこみます。そして弟子がバカな真似をすればパーンと頭を叩いたりするわけです。
同時に、リジーは作中ずっと檻の中にいる存在でもあります。それがわかるのは、アパートのなかに彼女がいる場面です。最初に夫婦が住むのはリジーが元々住んでいたパリのアパートですから、そこではまだ自由を感じることができる。ところが彼らがハンブルクのアパートに移ると、様子は大きく変わります。そもそもハンブルクはとても男性的な街で、家の壁はどれもぶ厚く、窓は細く、天井はとても低い。壁紙も暗い柄が多く使われています。すると、そこにいるリジーの印象もパリにいた時とは異なり、まるで檻の中に閉じ込められたようになってしまうのです。
――そうしたハンブルクやパリのアパート、それからカフェやレストランなどの場所はセットで再現されたのでしょうか? どれも1920年代の街の雰囲気を感じさせる、美しく素晴らしい場所でした。
エニェディ 二軒のアパートはスタジオにセットを組みました。ひとつはリジーの世界を表現する神秘的な場所として、もうひとつはヤコブのように謙虚で質素な住居として、設計図から細かな装飾に及ぶまで正確に表現する必要があったからです。それ以外の場所はすべてパリやハンブルクにある実際の場所で撮影しました。ヤコブが乗る船のシーンは、一部はハンブルクで、他はマルタで撮影しています。
私がどうして今この映画をつくったのかを感じ取ってもらいたい
――船の上でヤコブが仕事をしている姿は、パリやハンブルクで生活をしているよりもずっと幸せそうに見えました。船上での生活と陸上での生活は、彼にとってどのような違いがあったのでしょうか。
エニェディ 男性という生き物は、規則や習慣に満ちた生活のほうが落ち着けるとよく言われています。少なくともヤコブは、そうした規則正しい世界でこそうまく機能する男性です。船上での生活においては、何かをほのめかしたり、皮肉めいたことを言ったり、誰かを艶っぽくからかったりという類のことはいっさい起こりません。すべては白か黒か、イエスかノーしか存在しない世界です。ですから、船の上ではヤコブはよきキャプテンとして、常に正しい判断を行うことができます。船の上こそ、彼にとってはもっとも落ち着ける「自分の家」なのです。