文春オンライン
「応仁の乱は、経済的な一極集中の崩壊」「私も東京を脱出します」地域エコノミスト・藻谷浩介が描く“日本の未来”

「応仁の乱は、経済的な一極集中の崩壊」「私も東京を脱出します」地域エコノミスト・藻谷浩介が描く“日本の未来”

『トカイナカに生きる』インタビュー#2

2022/08/01

source : 文春新書

genre : ライフ, 社会, ライフスタイル

note

応仁の乱は「経済的な一極集中の崩壊」

 一方、応仁の乱というのは、経済的な一極集中の崩壊でした。それ以前は全国の一番商品価値があるものは京都に集まっていた。鎌倉幕府ができて武士の時代が来た後も、布などの手工業品や各地の特産品は、荘園の年貢として京都に集められて、そこで換金され全国に再流通していたのです。

 ところが応仁の乱で荘園からの年貢上納が消滅する。各地方にサブ京都のような町ができて、特産品はそこで換金できるようになった。だから歴史学者によっては『応仁の乱が日本の大転換点だ』と言います。もちろん承久の乱も明治維新も大きな意味があるのですが、経済の一極集中が壊れたエポックといえば応仁の乱になる。

 私はこれに似た状況がいまから来ると思っています。人の流れがトカイナカに向かうだけではなくて、お金も東京を通さずに回るようになっていく。応仁の乱の後は、山口や博多など遠隔地にも栄える町が増えますが、京都の近くでも、伏見に坂本、長浜、堺なんていう当時の『トカイナカエリア』が力をつけた。信長は安土、秀頼は大阪という、これまた当時のトカイナカを選んだのです。幕末にも、関東では横浜、関西では神戸という漁村が、当時のトカイナカに勃興する。

ADVERTISEMENT

©iStock.com

京都の公家が堺で儲けるみたいなもの

 幕末の後でも、大阪に首都を移そうと思っていた大久保利通を前島密が説得することで、江戸が東京となって首都が置かれ続けたわけですが、応仁の乱の後には、江戸というまったく新たな中心地が、ド田舎の沼地に建設される時代が来ました。江戸と京都・大阪の経済力が拮抗するには長い時間がかかって、逆転したのは戦後になってからですけど。歴史は繰り返しますから、いずれは東京をしのぐ経済の中心地が、京都・大阪に対する江戸のようにできて来てもおかしくはありません。

 京都の近くに大阪ができたように、トカイナカは経済的に活性化する筋があります。なぜなら、東京というマーケットのうまみも取り込みつつ田舎の良さも味わえる。人材も集積しやすい。東京が嫌になった奴がトカイナカのリーダーになればいい。京都の公家がいきなり博多や山口にいかないで堺で儲けるみたいなものです。

 当時、京都の商人は『堺ふぜいがなにができる』と田舎ものをばかにしたことでしょう。でも応仁の乱の100年後に外国商人がやってくるようになると、堺の経済力は急伸しました。歴史は繰り返すもので、東京を削りつつ世界とつながるトカイナカが脚光を浴びる時代が来る。私は最近、そんなことを思い描いています」