ドロッとした膿のように溜まっていく夫の気持ち悪さ
クス子にとって夫は、生理的な気持ち悪さを感じさせるだけの存在となってしまったが、夫はクス子がそのように感じていることに、恐らく気づいていない。夫が夜の生活を求めてくるたびに、クス子の身体の中に夫の気持ち悪さがドロッとした膿のように溜まっていく。
しかしクス子は思う。夫は悪人なのだろうか。たしかにクス子は夫に傷つけられているが、夫は相手が傷ついていることを知ってもなお人を傷つけ続けるような品性を欠く人間ではない。「夫婦なんだから、そういうのは当たり前」「60代でもするのがおかしいって誰が決めたの?」と夫をかばう人が現れたとき、クス子はそれでも夫を責められるだろうか。「心が死ぬのが先か、身体が死ぬのが先か……」その言葉を心で反芻する日々が続く中で変化が訪れた。実家でひとり暮らしをする80代のクス子の母が転倒し、介護が必要になった。クス子はカバン工場のパートを減らし、母の介護をすることにした。10年前に父が亡くなってからも衰え知らずの母は80歳を超えてもしっかりひとりで暮らしていた。クス子は母の健康に甘えて、実家のことは「そのときが来たら」と先送りにしていたのだ。
実家は2駅先なので介護は日帰りで十分だったが、慣れない介護で身体が疲れていたのか、ある夜、ベッドで先に眠った母のいびきを聞きながら、朝まで床で眠ってしまった。布団も敷かずに明かりをつけたまま寝たのにぐっすり朝まで眠っていた。明け方、クス子は少女だった自分が母の足にまとわりついて遊んでいる何十年も時代を巻き戻した夢を見て目が覚めた。母のベッドの横でなら、クス子は右にも左にも寝返りを打てた。母のいびきも気にせずに目をつむることができた。家で寝るときは夫が寝ている左側の掛け布団の端を手でギュッと握るのが癖になっている。そして夫の寝息が聞こえるまで目をつむることもできない。
クス子は夫に申し訳ないと思ったが安心して眠りたかった。夫には「母のために介護に専念したい」と実家で暮らすことを伝えた。言葉数の少ない夫は特に不満は言わず「困ったことがあったら連絡する」「何かあったら連絡して」とだけ言った。
クス子は初めて「あぁ、優しい夫と結婚できて良かった」と思えた。離婚しなければ「心が死ぬのが先か、身体が死ぬのが先か」と刺さっていた心の棘が、ほろりと抜けた気がした。
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