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77年、運命の夏

≪東京大空襲≫「あれよあれよという間に周りが火の海に」14歳で死生観が一変した昭和20年3月10日の夜

≪東京大空襲≫「あれよあれよという間に周りが火の海に」14歳で死生観が一変した昭和20年3月10日の夜

『文藝春秋が見た戦争と日本人』より#1

2022/08/12

source : 文春ムック 文藝春秋が見た戦争と日本人

genre : ライフ, 社会, 歴史

note

「今日のはいつもと様子が違う、よくわからんが数がやたらと多いみたいだぞ」

 19年の暮れ頃までは、まだ我が周辺には空襲による死者もそれほど出ていなかったし、時には日本の戦闘機がB29に食らいついて撃墜することもありましたから、「日本もまだまだよく戦っているわい」なんて思いもみんなのどこかにあったんでしょう。

 年が明けて、戦略爆撃機の専門家としてヨーロッパ戦線で名を馳せた、カーチス・ルメイが、テニアン、サイパン、グアムを基地とする第20空軍の指揮をとるようになる。

 ルメイはそれまでの高高度からの照準爆撃じゃ効果が少ないことに苛立って、攻撃法を変えろと命じました。だいたい日本の家屋は紙と木でできている、爆弾ではなく焼夷弾の方が有効だ、しかも、編隊ではなく単機で、昼間ではなく夜間に超低空で攻撃せよ、と。このカーチス・ルメイに日本の政府は勲一等の勲章をあげるんです(昭和39年)。いくらなんでもそれはないんじゃないの、とガックリしました。

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 このルメイの作戦変更による第1回の夜間無差別大空襲こそが、この3月10日夜の東京大空襲だったのです。

 母親と弟、妹たちは茨城県に疎開してしまっていましたから、向島の我が家にいたのは、おやじと私だけ。昭和5年5月生まれで私は満で14歳、中学2年生でした。

 なぜ私だけが疎開しなかったかというと、当時は国家総動員法が施行されていて、数えで15歳以上はすでに戦闘員なんです。昭和5年生まれというのは数えで15歳、ぎりぎり戦闘員としての体験を持っているんですね。

半藤一利少年(後列右から一人目)

 ですから、あの晩も、「明日も勤労動員で工場だなあ」などと考えながら、うつらうつらとしていたわけです。そんななか、警戒警報ではなく、空襲警報が鳴り響いたのは、午前零時を何分か回ったところでした。

 警戒警報なら寝ていられても、空襲警報ともなればさすがにそうはいきません。おやじが「坊、起きろ」と言うから、すぐに跳ね起きましたよ。

「今日のはいつもと様子が違う、よくわからんが数がやたらと多いみたいだぞ」

「あらら、今日はなんだかすごい」

 そもそもそれまでの空襲はたいてい昼間行われていたのに、今回は夜です。ラジオ放送も最初のうちは「東方海上に数目標」と言っていたと思いますが、そのうちに「数十」、やがては「多数」と変わってきました。要するに、日本軍はこの時ほとんど米軍の攻撃状況を把握できていなかったのでしょう。