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77年、運命の夏

≪東京大空襲≫「あれよあれよという間に周りが火の海に」14歳で死生観が一変した昭和20年3月10日の夜

≪東京大空襲≫「あれよあれよという間に周りが火の海に」14歳で死生観が一変した昭和20年3月10日の夜

『文藝春秋が見た戦争と日本人』より#1

2022/08/12

source : 文春ムック 文藝春秋が見た戦争と日本人

genre : ライフ, 社会, 歴史

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『日本のいちばん長い日』、『聖断』などのノンフィクションを記してきた半藤一利さん(1930~2021)の原点が、自らが体験した1945(昭和20)年の東京大空襲であった。

 東京大空襲は、1945年3月10日の陸軍記念日(日露戦争時の奉天会戦に勝利した日)、下町が狙われ、死者は10万人を超えた。『文藝春秋が見た戦争と日本人』より抜粋して引用する。(初出:『くりま』2009年9月号「半藤少年がくぐり抜けた戦争と空襲」)

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あの晩も警戒警報が鳴ったにもかかわらず……

 いま考えると、私が初めて歴史と正面から向き合ったのがその時でした。つまり、昭和史“探偵”の原点がそこにある。昭和20年3月10日――。まずはその前の晩のことからお話ししましょう。

 9日の夜、東京に警戒警報が鳴ったのは、午後10時半頃でした。この警戒警報というものにすでに慣れっこになってしまっていましたから、この日もさほど驚かなかった。

 軍需工場じゃなければ爆弾は落とされない、さすがにあの頃はもうそんなことを考える人は誰一人いませんでしたが、逆に言えば、どこにいようが当たってしまえばもうそれまで、と覚悟を決めていたようなところもあったんですね。ですから、あの晩も警戒警報が鳴ったにもかかわらず、おやじと2人、呑気に寝ていたんですよ。

あの日のことを静かに語りだす半藤一利さん ©志水隆/文藝春秋

 東京で米軍のB29による空襲が始まったのは、前年の昭和19年11月24日のことです。11月1日からB29が東京上空に飛来して、警戒警報が発令されることはしばしばありましたが、それはせいぜい一機か二機、偵察に飛んで来るだけで、いわゆる空襲ではありませんでした。

 しかも空襲が始まったといっても、最初のうちは中島飛行機があった武蔵野地区が標的でしたので、私が住んでいた向島(むこうじま)(現、東京都墨田区)あたりはB29はただ素通りして行くだけ。

 それも攻撃は昼間と決まっていましたから、澄みきって青々とした冬空を、B29の編隊がキラキラ輝きながら、飛行機雲をひっぱって飛んで行く姿がきれいでしてね。向島あたりではみんな物見高くて、空襲だといってもまるで他人事のように見物しているような有りさまだったんです。なんとものんびりしたものでした。

 私が勤労動員で働いていた工場でも、B29が来ると、作業を停止して防空壕に退避するんですが、誰も中に入りゃしない。自分の身に降りかかってこない間は、映画なんか観ているよりよっぽど面白い。坂口安吾さんが書いたように「世紀の見せ物」ですからねえ(笑)。