1ページ目から読む
3/3ページ目

1949年12月号「太平洋空戦の総決算 海軍航空参謀の想い出」淵田美津雄

 しかし、「荒木哲学」のような精神主義がのち玉砕や特攻という惨事をもたらしたのはいうまでもない。

 終戦の直後、まだ日本が占領下におかれていたとき、元軍人より早くもその反省の弁が出た。

 国民性であろう。日本人は勘がよいのかどうか、多くのことは、腰だめで見当をつけて了(しま)う。それだから上すべりする。地道に深く掘り下げるという合理性に乏しい。綿密な偵察の基礎に立つて、攻撃を計画するよりも、敵情不明は有りがちだ、当つて砕けろという方が多い。
 

 合理性の欠如、これは偵察ばかりのことではない、戦争全期を通じ、凡(あら)ゆる面に、一貫して現われている。つまり、辻褄が合わない。合わないのを、平気で無理するから、いよいよ合わない。もともと、この戦争は始めから辻褄が合つていたかどうか。

 じつにもっともな指摘である。

ADVERTISEMENT

 淵田美津雄(1902~1976年)は、海軍航空の第一人者。太平洋戦争開戦時には空母「赤城」の飛行隊長を務め、真珠湾攻撃に際して第一次攻撃隊の総指揮を執った。現地より「トラトラトラ」(我奇襲に成功せり)の電報を打たせたのはこのひとだ。その後も、第一航空艦隊首席参謀、連合艦隊航空首席参謀など航空畑を歩んだ。

槍玉にあげられた「名文禍」とは?

 航空戦は、石油、科学力などがものをいう。それなのに、日本は物量がないものだから、少数精鋭の職人芸に頼ってしまう。背に腹は代えられぬ現場の苦しみを知るだけに、淵田の日本軍批判は正鵠を射ている。

 名人になる、それ自身は結構な事である。しかしこの名人気質、これは多量生産を邪魔する。少数を珍重がり、独特を尊ぶ芸術品的存在は、航空戦の本質と撞着する。(中略)大体日本海軍航空は、飛行機の機種が多過ぎた。貧乏人のくせに、あれもいる、これもいるで、金持よりも沢山の種類を欲しがつた。これは名人禍から来ている。

 淵田が「名人禍」とともに槍玉にあげるのが「名文禍」だった。これも日本の貧しさに由来した。

淵田美津雄

 勝利を重ね、余裕があるときは、ただ「撃滅せよ」と命ずればいい。だが、負けて戦力の補充がむずかしいと、派手なことはいえない。かといって、無為無策も不可――。

 そこで、筆先で辻褄を合わせざるをえなくなる。

 こうなりや、つまり文章で戦さをすることになる。

 “……巧に兵力を温存しつつ、機宜短切なる攻撃を以て、敵兵力の撃滅を策すべし”。とか何とかと文章をひねくり廻す。温存だとか短切だとか、生れて始めてお目にかかるような言葉は大概、陸軍の方から教えて貰つたのだけれど、言い現わして妙である。

 淵田は参謀として、このような作文をせざるをえなかったと苦々しく回想する。

日本人は「少くとも戦争のやれる器でない」

 では、物量さえあればよかったのか。そうではない。淵田はそこから筆を進め、日本人がそもそも近代戦に向いていないとまで主張する。

 所詮、戦争などというらち外れの大仕事は、偏狭な日本人の枡目で測れる仕事でなかつた。日本人は好戦的だなどというのもいたが、事実は、こういつた面から見ても、性に合うか合わんかは別として、少くとも戦争のやれる器でないことだけは確である。この意味から言つて、戦争を抛棄(ほうき)するのはあたりまえである。

 新憲法の絶賛ではない。淵田は民主主義さえ日本人には重荷ではないかと述べているのだから。

 ふたたび貧しくなり、ことば遊びがはびこりつつある現代日本で、あらためて味わうべき文章ではないか。

評論家・近現代史研究者の辻田真佐憲氏による「文藝春秋が報じた軍人の肉声」全文は、「文藝春秋」2022年9月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

文藝春秋

この記事の全文は「文藝春秋 電子版」で購読できます
文藝春秋が報じた軍人の肉声