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1932年9月号「荒木陸相に物を訊く座談会」荒木貞夫/古城胤秀/直木三十五/菊池寛

 戦争の肉声は戦後が中心だが、戦前・戦中にもみるべき記事がないわけではない。とくに読みごたえあるものを1篇あげよう。

 荒木貞夫(1877~1966年)は当時、斎藤実内閣の陸軍大臣。日本軍を皇軍と呼び、竹槍300万本あれば大丈夫となんども呼号して「竹槍将軍」ともてはやされた。皇道派の領袖でもあり、戦後A級戦犯に指定され東京裁判で終身刑となった。

荒木貞夫

 お堅い精神主義者に思えるかもしれない。だが、カメラを向けられれば木刀を振り、白足袋で器械体操を披露するなど、意外にもメディアに“出たがり”の部分もあった。

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 当時は満洲事変の勃発から約1年後。まもなくリットン調査団の報告書が公開されるという緊迫の情勢だった。そこでインタビュアーのひとり、作家の直木三十五が、国際社会より経済制裁を受ける恐れはないかと問うと、荒木は持説を開陳した。

 やるといふんでせうが、やり切れますか。やつても我慢しなければ――日本は封鎖されても経済的には少しも困らんといつて我々は覚悟をして居ると、よく私は冗談をいつたんですが、新聞はひやかし半分に書いて居りますが、飯が食へなかつたら粥を食へ、粥が食へなかつたら重湯を吸へ、それも吸へなかつたら、武士は食はねど高楊子で行く、そこまでの覚悟があればいゝ。

 日本はまだ言論統制が緩かったこともあり、直木はなお鋭く斬り込んだ。アメリカと戦争になり、負けて内乱になったらどうするか、と。荒木の答えは意外と投げやりだった。

 それは内乱が起つたら、どつちへか片付けなければ、泣言をいつたつて仕やうがない。過去に於てもどうせ戦国時代を経て来たんだから。(中略)私共最後は湊川まで行つて斃(たお)れる、任務を果して、自分の力の範囲でやる。

直木三十五は諦めず、元陸相に切り込むが…

 それでも直木はまだ諦めない。このまま軍部の主張どおりに行動すると、戦争にはならずともアメリカと衝突し、経済が悪化するかもしれない。そのばあいの責任はどうなるのか。これには荒木もいったん国民に意気地がないなら軍隊を引き上げるしかないと答える。

 だが、気を取り直したのか、すぐ神がかった「荒木哲学」を展開しはじめる。日本人は災害に強いので、国難にも強いというのである。

 また総ての事から考へてこの日本の国のやうに地震、暴風雨、波濤、山嶽、これ等によつて世界の他に見ない非常な試練を受ける。こゝに住むといふことは日本人として与へられた責任ではないか。この日本に生れてるといふことは地震と戦はんければならん、我々は地震の子だ、地震の兄弟だ、何故に地震を恐れるんだ、地震があれば愉快と考へる。(中略)波瀾があるこの日本に生れた以上進んで理想郷を造るのが愉快、どんな事があつても国難だ、何難だ、難々々といはんで、難は我々の友達なりと考へる、かういふ点から私は出発してこの民族性は少くとも出来て居るんだ、さういふ所から築かれて居るから、さういふ神話になつて出て来て居る。

 神話云々とは、天地開闢の「このただよへる国を造りかためなす」という部分を指すらしい。

 それにしても、荒木の長話がそのまま伝わってくるようだ。その秘密は記事末の注記にあった。「此の速記は発行期日切迫の為め荒木陸相に御覧に入れることが出来なかつた」。検閲に引っかかる恐れがあったのに、なんとも大胆不敵なこと。

 読者に情報を届けるためには危難もかえりみず。軍部に脅されて、プロパガンダをやらざるをえなかったという通説とはまったく異なる。このジャーナリズムの前のめりが、ときに貴重な肉声をとらえた。