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友達の誕生日祝いも…事務所からNGが

――当事はアイドル路線だったから、事務所としても厳しく対応したのかもしれませんね。

五十嵐 制限は多かったですね。例えば友達が誕生日をクラブで祝いたいというから、事務所に「行きたい」と言っても「ダメだ」と。「クラブなんて行ったら悪いことするし、絶対写真誌に撮られるから」と言われて。「友達の誕生日を祝えない世界って、なんなの?」と思った時期もありましたね。「別に俺がちゃんとすれば良くない?」って。ちゃんとする気があるから、こうして事前に事務所にも言っているのに……と釈然としなかった。

 でも、今になると事務所の気持ちもわかるんですよ。実際、夜の店では芸能人にいろんな人がトラブルを持ち込んでくる。ただ、当時は自分も若くて、尖っていたんですよね。だから、事務所に黙って知り合いのバーを手伝ったりとかもしていました。いろいろ窮屈に感じていたんだと思います。

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©️文藝春秋

六本木のしゃぶしゃぶ屋は成功したものの…

――実際に起業はされたんですか?

五十嵐 最初は親父の会社に入りました。うちの親父は電子部品の会社をやっていたんですけど、第二事業部で飲食部門を作ってもらって。数人の仲間と共同経営という形で六本木にしゃぶしゃぶ屋をオープンさせたんです。飲食店って「2年は我慢」とよく言うんですけど、知り合いが多かったこともあって、最初から赤字は出さずにうまくやれていました。4年ほどは踏ん張って、経営していましたね。

――その後も店はそのまま続いたのでしょうか?

五十嵐 実はしゃぶしゃぶ屋の後に、バー、カフェと六本木に合わせて3店舗出したんです。でも、お客さんもしゃぶしゃぶ食べて、カフェ行って、飲み屋に行くというのは不可能じゃないですか。1日1軒が限界なんですよ。そうなると「六本木に複数店を出す必要ないよね」「じゃあ違う土地にしよう」という話になって。それで結局バーとカフェを売って、代わりに沖縄の繁華街にバーをだそうと考えたんです。しゃぶしゃぶ屋の経営から離れて、親父の会社も辞めて、その沖縄のバーで勝負することにしました。

©️文藝春秋

 でも、むこうに住んで沖縄で1年バーの経営をやると、経営者としてまだまだ甘ちゃんだったとつくづく感じました。沖縄の冬は本当にヤバいんです。全然観光客がこなくて、たまに遊びに来るゴルフ目的のお客さんは、朝が早いから夜まで居ないですぐに帰ってしまう。地元の人たちは自分たちの地元の店で飲むので、思うように客がはいらない。